透明な軌跡に殴打せよ【殴打、その他の夢について】
今回のコミュ、ファイトクラブが元ネタなんじゃないかとか、透が見る側になって気づいたことがあったとか色々あります。特に見る・見られるに関しては【おかえり、ギター】実装時のnoteにも書いたり、あるいはGRAD編の感想にも見られる意識というので色々書いたりしてました。文字数多いのに画像とか使って読みやすさ意識してないから申し訳ないと思いつつ、全部力作なのでお暇があれば。という宣伝。あとタイトルよくないですか?最後の見出しどうしよっかなーって考えてたら思い浮かんだのでタイトルにしました。だからめっちゃ関係あるかって言われるとそんなにタイトル関係ないです。そんなになのでちょっとは関係あるよ。タイトル詐欺ではない。
そして恒例の注意喚起。注意喚起というか、透のコミュってどれも親和性が非常に高いんですよね。今回はGRAD・LPの2本でお送りいたします。が、多分それ以外の話も出てきます。【poool】の「虫たちの夜」冒頭の雛菜との会話が思い起こされたりもするし。後すげー今更なんですが、【faaar】と【poool】、【かっとばし党の逆襲】と【チョコレー党、起立!】とか、サポカのも意図的につけられてるし、もうちょいサポカ僕自身もしっかり読み込まないといけないなって意識にさせられました。【殴打、その他の夢について】は【まわるものについて】(どちらもイベント報酬!)だったりもします。というわけで2本といいつ2本じゃないです。メインで絡んでくるのが2本というだけで、多分都度都度別のカードに言及します。限定の話されたくない人はブラバ推奨です。
GRAD・LP・感謝祭とつづく、で見る・見られる
さて、見る・見られるというのが今回実装されたイベントカードのテーマとなっています。その見る・見られるをファイトクラブのような殴り合いに例えている。そしてこの意識、浅倉透にとっては非常に画期的なものだと思います。この画期的な意識をイベントカードに持ってきてくれたのは(誰でも読めるので)偉いなと思いました。まる。
今までの浅倉透の自意識は被捕食者でした。今までの、というよりかは、GRAD編で自覚したのは、というのが正しい言い方でしょうか。その時に彼女はどう思ったのか。というのが以下に。
……いいや、私 どんな形したのが、私って思われても
これは誰がどう見ても被捕食者側としての意識です。一方で今まで散々コミュ内で言及されてきたように、周りからは透は捕食者として認識されています。このアンバランスさがLP編で最も顕著に表れ、そしてあくまで僕にとってはですが、LP編のプロデューサーの行動に対してダメ出ししまくるという要因になっていたように思われます。
ただ、この意識に関してですか、LP編の感想で言及していたのですが、彼女はLP編で仕事を引き受け、「なる」ではなく「する」の意識を強く持っていたんじゃないか、ということを書きました。これは【つづく、】でも未来についてPと話しているときに似たような会話が出てきていましたね。
この「なる」ではなく「する」という意識は、被捕食者としての意識だけでは難しいと思われます。なので、僕としては今回のコミュでいきなり見る側というか、殴る側というか、そういう意識が芽生えたわけではなく、今までの彼女のアイドルになってからの経験が裏にあるのは間違いないでしょう。
『ファン感謝祭』の「ライク・ザ・シー」では上画像のようなことを透は感じています。被捕食者としての意識がある透でしたが、ここでは見られる意識というのがほぼありません(時系列的にGRADよりも前だから?)。一方の円香は見られてたという意識を痛烈に持っており、ここでは透に示唆しているものの、おそらく彼女は見てるという意識よりも見られてることの方がより感じたいたことでしょう。【ギンコ・ビローバ】でも円香の「この寒いのにアイドルだからって薄手の衣装とかありえない」という発言があります。この薄手の衣装は本当に寒さに関して言っているのではなく、見られることを意味しているのは一目瞭然です。
ファン感謝祭のこの部分では、透はまだ見る方の意識しかなく、それがGRADで被捕食者としての意識が芽生え、おそらくここで見られるということに関してなにがしかのことがつかめたのかもしれません。ともかく、透は圧倒的な見た目の暴力とは裏腹に、見られる意識ということについて非常に弱いままだったのです。これに関してはきっとノクチルになる前の幼馴染たちの輪にいたこと、あるいは円香やともすれば雛菜の影響が強いのかもしれません。円香が視線に敏感だってことは間違いなく透の影響でしょうし。が、これは妄想の話になっちゃうしこれ話してると長くなるのでまた機会があれば。
こうして徐々に見る・見られることに関しての意識が芽生えていった透ですが、決定的だったのはLP編です。どんな形してもいいや、と思っていたが、世間はそれを許してくれなかった。浅倉透という偶像は虚像ではなかったのです。つまり、偶像というものは形ないものではなく、だからこそ宗教なんかは偶像崇拝の禁止とかいってるんですよね。まぁそれはいいとして、わかりやすくいえば浅倉透は決して虚像ではなく、アイドルという偶像だとしても彼女は形作られてしまっていたのです。その偶像の形に関してはあるいは個々に変化はあるかもしれません。仏像だって彫る人によって違うでしょう。しかし、それは個人差であり、偶像であることは免れません。また、影響の大きい偶像であればそれらが一般的に浸透することは容易に考えられます。LP編での浅倉透はどんなものだっていいという意識とは裏腹に、ある程度の固定された形、それがスポンサーの意向という「ノクチル」の美しさとはまさに対極にあるものによって、浅倉透という偶像が彫られてしまった。しかし透はそれに対して唯々諾々と従いはしません。それがスポンサーの意向どおりには笑ってやらなかったことなのですが、ここで見る・見られるという言葉は使われなかったものの、十分に見いだせます。
レンズ越しに見る・見られる
そこで今回のコミュが画期的だと言ったことについてようやく触れられますが、彼女はここで「レンズ越し」に見るというのを自覚するのです。そこで彼女が感じたことは殴り合いです。そう、この殴り合いということこそが非常に重要なのです。
被捕食者としての意識はどちらかといえば殴られているというのが、本コミュに即した場合正しい言い方でしょう。しかし、レンズ越しに写る雛菜を見て
雛菜
が
殴る
ガツン
と感じます。円香が感じている視線の暴力とは裏腹に、その実レンズ越しの人物から殴られている。そう、実はこれは殴り合いだったのです。そしてこの殴り合い、今回は明確に言葉にされた点を僕は画期的だと言ったのですが、LP編でもうすでに透がやってるんですよね。僕は以前のLP編の感想では「受動から能動へ」という言葉遣いで表現しました。見られる、ではなく、当初透が「ライク・ザ・シー」で感じたいたような「こっちが見てた」という意識に再び立ち戻るのです。そういう意味で言えば透は当初から何も変わっていないのかもしれません。また、これまた以前の感想で見られることに対する意識の低さについてもコメントしたことがあります。透はGRADやLPで見られる側の意識を知り、GRADでは一旦は見られる側の意識に――泥の中に沈みます。これには頑張ってる委員長からお礼の言葉をもらえたこと、これは彼女が彼女自身の自認とは裏腹な見られ方をしていた結果、感謝されたとあるいは感じたのかもしれません。そうした結果がGRADラストのどんな形したのが私でもよく、いつか誰かが食べてくれたら(消費してくれたら、という言い換えもいいかもしれない)ということにつながったのだろうと思います。
先程指摘したように、この意識のままではLP編では上手くいかなかった。というか、透自身が望んだように振る舞うためには、どんな形したのが私だっていいというような受動的な態度ではあり得ませんでした。今回のコミュは、そういった意味で画期的であり、透の今までの意識がストンと腑に落ちたといえるかもしれません。
ただしここで注意したいのは、透はあくまで腑に落ちたというだけのことであり、今まで透は全く無頓着であったわけではありません。そもそもこの見る・見られるという話題、あるいは捕食者・被捕食者というのも、遡れば【まわるものについて】ですでにあるのです。これはまたまた軽く宣伝ですが、彼女の時間感覚の記事も書いたことがあるのですが、そのときは時間に絞って考えていました。ただ、以上のことを踏まえて見るに、彼女のこの感覚、循環している感覚というのは彼女自身を貫いているものだろうと今となっては思います。
また、その他にも【おかえり、ギター】では、レンズ越しに撮影されながらも「食べられてやる 時々」とも言っているのも見逃せません。ここは見られる意識のみですが、時々、というのがやはり重要ですよね。恐らく時々と言っているからには、時々じゃないときは食べられてやってないのでしょう。その後スポンサーから色々あってギターの音が彼女に増えるわけですが。
芯につながる、芯だけにつながる
そもそもノクチルというユニット自体が相互に連関しています。ノクチル↔幼馴染というように。つまり、ノクチルは別にノクチルではなかった。彼女たちは彼女たちそれ自身での美しい輝きを『天塵』でPが認めていて、それはまだ彼女たちがノクチルになっていない、凡庸な輝きだったかもしれません。それはまだ彼女たちが透明だったころで、ありのままの輝きでもあるでしょう。大きな輝きではなく、夜光虫のような、夜にしか見れないもの。しかし、ノクチルというユニットになり、『さざなみは凡庸な音がする』で撮れ高がないなー、思ったより面白くないわ、みたいなことを言われたように、彼女たちはレンズを通せば幼馴染ではなくノクチルとなります。ノクチルとしての輝きは、さざなみコミュでは『天塵』で透が取った行動だと思われていました。これ自身も偶像だとは思いますが、とまれノクチルと幼馴染は見る・見られるのように立っている場所が違うというだけの構図となります。
そうした意識がある中、透はジャングルジムのように上へ上へという意識があります。それがGRAD編にもつながっている精一杯息することだし、もっと言えばジャングルジムってなんでジャングルジムなの?っていう。登り棒の方がもっと直接的に上に登れるのに。これには、Pが一緒に登ってくれていたということが示唆してくれるように、透は他人を必要としているのでしょう。この辺り、透があまりにもアウトプットが苦手だったり、『天塵』でもノクチル(幼馴染)なのに透だけピックアップされたりと、個人というのが強く表現されています。GRADでの委員長から見た透もそういった認識だったでしょう(クールな感じだからクラスのこと協力してくれるんだ)。でも、彼女の原点というか、原動力になっていたものはジャングルジムです。それも一人ではなく、誰かと一緒に昇っているという。
真ん中に芯があって、ぐるぐると周りを回っている。螺旋階段みたいなイメージなんですが、でも螺旋階段じゃないんですよね、僕のイメージだと。つまり、螺旋階段って階段同士が結局のところつながってるわけじゃないですか。周囲に回っているものって全部独立してて、じゃあなにに紐付いているかっていうと芯にです。そして、この芯はジャングルジムというモチーフのように、決して一人だけのものではなかった。だからこそ、wing編で透は言葉にしなくても伝わるって思ってたんです。同じ場所に立っているのだから。でもそれは違った。最初はそのことに対して幻滅を覚えて思い出の人はプロデューサーじゃなかったとまで思うわけですが、実際は同じ思い出(同芯)があって、でも芯が一緒でも違った。
これも以前なんかに書いたような気がするんですが、幼馴染の中では、特に円香とは芯が同じだから一緒だと勘違いしてしまったんでしょうね。それに、雛菜との今回の会話や【poool】でもそうですが、透の考えていることや発信していることにいちいち突っ込まない。そうした関係性の中で作り上げられた浅倉透にとって、同じ芯なのにどうして伝わらないの?となるのはある意味では当然だったと思います。そして伝わらないんだ、って気づいたことにwing編には大きな意義があるでしょう。こうした伝わらない、だから言葉にしなきゃっていう意識はGRADやLP編にも影響を与えているんじゃないかなと。
テレビ越しの夢、ディスプレイの先にはフィクションと
さて、以上のように循環しているノクチルもとい浅倉透で見る・見られる意識を多少は自分のものにすることができたのでしょう。最後少し気になるのはカード名のその他の夢、という言葉です。ファイトクラブ云々はこの際触れません。気になったら映画見ればいいと思いますよ。僕は数年前に見ました。珍しく。
透は殴ったりするんだよね~っていう話を雛菜にすると、なんでって聞かれます。ここで悩むんですよね、透。ファイトクラブ見てたらなんとなーく、わかる人もいればわからない人もいるとは思いますが、ここが僕がファイトクラブ云々はこの際触れないといった最大の理由です。透はファイトクラブで戦ってる理由がわからなかったから、映画の内容に立ち入る理由が全くないと僕は思います。そこは全く重要なポイントではないのです。
透は雛菜になんで、と聞かれたことを反芻します。そこで夢から覚めるみたいに、という単語が登場するのですが、この夢はなんでしょうか。
透がなにがしかを理解する直前、雛菜は透が言っていることがどこで行われているかを訪ね、テレビのことだったんだね、とそこで初めて気づきます。これ円香だったらもっと早い段階でこの前やってた映画でしょ、とか絶対言うんですよね。まぁそれはいいとして、テレビだったという発言の直後、レンズ越しに見える雛菜から殴られているということを理解するわけですよね。
恐らくここでの夢というのはテレビ越しのもの、いわば生ではなくといった意味でしょうか。そういった意味で捉えれば、コミュタイトルの写像というのもなかなかどうしてといった感じです。
これ僕が考えていることが当たっているとしたら、実はめちゃくちゃ攻めてるコミュだと思います。言っちゃえば偶像批判というか、今までも偶像は違うとか、【途方もない午後】やGRADで示されたように周りからの視線にちがーう、って透はなってたので今に始まったことじゃないとは思います。でも、今回のはそれらに比べて「テレビ」という具体名がでてしまっているので、もっと直截的です。
本当の現場では殴り・殴られというのがリアルに行われていて、それが例えばLP編ではクライアントの要望どおりには行わなかった透のように、緊張感すら漂っているのかもしれません。しかし、テレビ越しにそれを見ていた透はそのことに気が付きません。雛菜になんで、と尋ねられてそこで止まって色々考えられるのは流石だなって思うんですけど、その後レンズ越しにリアルで見るという経験で、あぁ、こういうことだったんだと気づく。
もちろん本当とはいってもシャニマスはフィクションです。何を今更当たり前のことを、って思うかもしれないですけど、まぁ一応ね。でも結局僕の感想っていうものは僕が生きてきたというリアルな経験に即している部分があって、そういう意味では作品はフィクションで浅倉透という人物なんてのは実在していない一方(リアルのライターが書いているのは置いておいて)で、僕の感想だけはリアルなのです。歪ですよね。まぁいいや。
ともあれ殴って殴られて夢から覚めるみたいになるっていうのをぶっこまれると、フィクションだとかリアルだとかっていうのを眼前に持ってこられるというか、考えすぎなのかな。
透明な軌跡に殴打せよ
そんなこんなで殴り殴られ、見る見られ、食べて食べられという、ある意味で今までの透の軌跡みたいなのがまとめられた良質なサポコミュだったと思います。そしてもう一つ、さっき最後にって書いたけど、今回のコミュでは透がなぜ顔をドアップで撮影していたのかっていうのも重要なんじゃないかなって思います。
結局表情が一番感情が豊かだからかもしれないですよね。仮に顔が写っていなければ誰?ってなること請け合いです。LP編でも注目されたのは透の微笑みでした。また、思い起こされるのは透の顔がいいことによって引き起こされたGRADの問題であったりもあります。運営側も透は顔がいい、って言われてること知ってるでしょうしね。だからこそ、透は”顔がいいもの”を撮影したわけではなく、”いい顔”を撮影したのかもしれません。雛菜の写真がブレてるのっていい顔ではなかったからなのかな。わからん。
ともあれ殴打、なんて言葉がでてきて面食らったと思います。面食らいました僕は。殴るってなんやねんっていう。でも中身を見れば、先程も書いたように透のたどってきたものが結構表現されているように思えます。歌うみたいに泣くみたいに笑うみたいに、そして夢から覚めるみたいに殴り殴られ。GRADやLPを踏まえれば、特にGRADでは息してるだけでレンズ越しにバズり、LPでは半目の赤ジャージでした。そうした彼女の総決算的なサポコミュになったんじゃないかなと思います。
途中ちょこちょこ脱線しつつですが、循環するの部分で【チョコレー党、起立!】の「総括せよ」についても触れたいなって思ったんですが、辞めました。いやね、言い訳じゃないんですけど、冒頭にも書いたみたいに透コミュって親和性が非常に高いので、どうしても一つのコミュについて書いていてもいろいろなところから引っ張ってきたくなっちゃうんですよね。
また、今回は画像多めに入れて見ました。見る・見られるについて書いたので多少は入れとこうかなと思い。今後続くかは未定です。そもそもnoteは自分のためという側面が一番だったりもするので、めんどくさくなったら辞めます。評判良ければ続けます。評判の良し悪しはどこで見れるかわかりません。だから続かないでしょう。
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