にちかと美琴とルカと――キリスト教と仏教とニーチェと異なる視点から
ルカはイエス?
シャニマスの記事をぼーっと眺めていたら、「Dye the sky.×ルカによる福音書×創世記から読み解く『神様は死んだ、って』」という記事を見つけました。元ネタの考察なんかはあくまで僕が読んだ限りですけど、かなり説得力があって僕はなるほどなぁ、多分元ネタ合ってるんだろうなぁ、なんて思いながら読んでいました。
とまれ、人様の面白い読み物に対して丸々乗っかってしまうのも恐縮なんですが、読んだ上で自分が考えたことをしたためていきたいというのが今回の主旨です。
まず、「緋田美琴」に関してですが、彼女の誕生日はカトリックでは聖母マリアの誕生日(9/8)とされています。ここでもう一つ気になるのが、彼女の名前である「美琴」です。
キリストはしばしば「ダビデの子」と言われます。イエスよりも1000年以上前にいた古代イスラエルの王がダビデなのですが、なぜ彼をもってしてキリストが「ダビデの子」と言われているのかとかは今回関係ないので、興味ある人は自分で調べてみてください。ここで大事なのは、そうした記述がキリスト教聖書内で17箇所あるということです。
さてそんなダビデですが、どうやら彼は竪琴が得意だったようです。ウィキペディアによるとフランスのスペードのキング(ダビデがモチーフ)には竪琴が描かれているそうです。実際彼が描かれた絵画にもしばしば竪琴が登場しているようで、それだけダビデ=竪琴というのが強くあるということでしょう。
ここまでいえばもう僕が何が言いたいのかを察してくれたかと思いますが、美琴は聖母マリアの誕生日と同時に、ダビデの名前を冠してすらいるのです。と、ここで気になるのが次にルカでしょう。
ルカは「神様は死んだ、って」という、SHIisの「OH MY GOD」の楽曲に対してなかなか挑戦的な楽曲を発表しました。ここまでキリスト教についてのことを色々書いてきましたが、どうにもルカにもキリスト教徒関係があるような気がします。
そこでキリスト教であれば、元ネタのnote様にも書かれているように、「ルカの福音書」があります。ちょっと話を戻しますが、美琴の誕生日は聖母マリアのものでした。そして、にちかの誕生日は聖アンナという聖母マリアの母に当たる人の誕生日(7/26)です。ではルカは?彼女は1/31で、わかりやすい12/25(大崎姉妹がすでにいる)や12/24でもないわけです。ちなみに、キリストの誕生日は12/25ではありません。元々ローマの冬至の日だったそうです。まぁこれに冠しては詳しくはいいでしょう。
ところで、聖書や福音書なんかはよく○章○節、なんていい方をします。じゃあ、ルカの福音書の1章31節ってなにかと言うと、
あなたはみごもって、男の子を産みます。その子を『イエス』と名づけなさい。
どうでしょうか。元ネタ様の記事も合わせると、聖書説がかなり濃厚になった気がしないでしょうか。僕はもうあーこれだなー、って結構思ってます。元ネタ様に感謝です。基本的に誕生日もそうだしシャニマス好きだけどあんまり楽曲とかも聞かない勢だったので、僕じゃ絶対に気づけませんでした。神様モチーフだなぁ、とかはもちろんカミサマとかoh my god で漠然とはありましたけど。
だから、「Dye the sky.」とかに関しても、dye は染料って意味ではあるものの、もし考察が正しく「神様は死んだ、って」と何らかの関わりがあるとするならば、dyeはdieとのダブルミーニングであって、神=空ということから、そういった面でも色々考えられそうな気もしますが、今回はそれはおいておきたいと思います。それよりも、神様は死んだ、という言葉に焦点を当てていきたいなと思います。
斑鳩と聖徳太子という偶像
ニーチェの言う神は死んだという言葉の意味は、非常に簡単に言うと絶対的な価値が失くなった、というような感じです。もちろん、キリスト教を信仰しなくなるという意味合いも含まれていますが、それよりも絶対的な真理などに対する信頼が失くなってしまった。道徳観念にも手痛い攻撃を加えニーチェの、一言に様々な意味が集約された巧みな言葉遣いだと言えるかもしれません。ただ、神の死自体は『教養として学んでおきたいニーチェ』によると、ヤコービやヘーゲルなどと言った人たちの概念をパロディとして使用しているそうなので、彼なりの言葉遣いとはいえ、オリジナルな概念ではないようです。が、まぁこれは本編には関係ありません。オリジナルな概念じゃないよ、っていうのは一応ね、書いときたいなって思っただけです。
ただ、僕としてはこのニーチェの神は死んだという意味合いがSHHisやルカにそのまま適用できるとは思っていません。一方でニーチェが関係ないとも思えません。やっぱり神は死んだって言われちゃうとね。あと、そこから自分なりにちょっと思ったことというか、妄想の域をでないのですが、ニーチェが仏教を知っていたこともちょっと関係あるのかなー、なんて。ニーチェはショーペンハウアーの影響を受けていたので、古代インド哲学の流れとかで仏教にたどり着いたんでしょうか。
さておき、仏教は絶対的なものの不在を説いたりもしているんですが、それはつまり神様(一神教的な)の不在、と言い換えることも可能だと思います。それに、例えばノーカラットの冒頭や最後でも、ステージの「奈落」にスポットが当てられていました。奈落とは元々仏教用語で、転じて舞台にも使われるようになりました。一方で、奈落には嫉妬が潜んでおり、舞台事故を起こすと考えられていた(ノーカラットではにちかが)とのこともあるので、ノーカラットのオチが不穏に終わっているのも、あるいは美琴の嫉妬があるやもしれません。色々触れたいですが、本題ではないので割愛させていただきます。
もちろん、これらだけで仏教というのはいささか乱暴過ぎる意見だとは重々承知しています。七草の風習も仏教じゃなかったので、やっぱり考えすぎな気もしてきます。ただ一点、斑鳩に関して言うと、斑鳩っていかるっていう鳥の名前で、「Dye the sky.×ルカによる福音書×創世記から読み解く『神様は死んだ、って』」にも書かれているように、関係しているんだろうなって思います。一方で、僕はむしろ斑鳩がある場所、法隆寺に目をつけました。法隆寺は別名斑鳩寺とも言われています。法隆寺は聖徳太子が建立したものらしいのですが、聖徳太子あんまり詳しくないので以上です。ただ気になる記述としては、聖徳太子の業績があまりにも多く、一人でやったとは考えられないことから聖徳太子が教科書から消える、なんてことも今ではあるそうです。聖徳太子という”神”は死んでしまったようですね。
交わらない視線
話を戻します。神は死んだについてですが、僕は今までノクチルもとい浅倉透についてをメインに今までnoteを書いてきました。そこで、ノクチルについての高山Pがしていた発言を何度か紹介しているのですが、その内容というのが既存のアイドル像の型にはまるべきかどうか、っていうのがありました。
SHHisについては、アイドルになれるなら死んだっていい、というくらいの美琴さんと、「Home, Sweet Home」で”家”族のアイドルだったころを幸せだというにちかの二人によってなっているユニットです。美琴に関しては既存のアイドル像にやや合致しているようにも思えます。しかし、その美琴は売れず、彼女と組んだルカはカミサマとして人気となり、そしてにちかにもブレイクの兆しが見えてくる。この構図自体こそが、既存のアイドル像の型にハマっていないような気がしてなりません。ちなみに、ここでいう既存のアイドル像の型というのは、僕はアイドルマスターの文脈で、という理解をしていますのであしからず。
そこで、ルカにしろにちかにしろ、美琴に近しい人間ほど、彼女を評価し、また彼女とユニットを組んでいたいと思い続けています。ただ、それを奈落の嫉妬が許さないんでしょうか、ルカとはうまくいかず(これについて詳しくはまだ分からない)、にちかともどうなるかわかりません。工業大学の勝つためのコマでは、人の心は動かせないんでしょうか。
さて、そんな美琴を置いて?カミサマとなってしまった美琴が歌う、「神様は死んじゃった、って」は、アイドル、つまり偶像の死亡。偶像であるアイドルであるカミサマの死亡、ということにならないでしょうか。
元々キリスト教だって偶像崇拝は禁止していました。けれどうまくいかずに偶像を崇拝してしまっている。皮肉なことに、カミサマが神様の死亡を歌ったとしても、誰もそれを受け入れないでしょう。けれど、これはニーチェが唱えたことと接近します。彼は神は死んだで、絶対的なものへの信頼が崩壊したことを指摘しました。にも関わらず、キリスト教道徳は生きながらえているのです。奴隷道徳、ルサンチマンがそこには存在しています。
認識が対象に従うのでなく、対象が認識に従う。この言葉はカントが言ったものです。ややこしい言い回しで恐縮なのですが、我々の認識は対象それ自体を見ているものではなく、我々の先天的な知識などを対象に投射することによって認識するのだ、ということを言っています。詳しく説明するとこれだけで長くなりますし、僕程度の説明では納得できない人もいると思いますので、気になった人は調べてみてください。
ニーチェはこの事自体には同意したらしいのですが、しかしカントと違うのは人それぞれ対象に投射するものが違うよね、ということを唱えたらしいです。今となっては当たり前の概念のような気がしますが、ともあれそうした人それぞれが対象に投げ込むものが違えば認識が違う、これをパースペクティブ主義と言います。
ニーチェの考えを取れば、どうやらSHHisはそれぞれ思っていることが違います。ノーカラットでは仲良しこよしのアイドルじゃなくたっていい、というようなことが言われますが、恐らくこの仲良しこよしは同じパースペクティブを共有している、と捉えることもあるいは可能かもしれません。
その点、SHHisは最高のパフォーマンスと言う意味では同じパースペクティブかもしれませんが、一方で奈落からの見え方が彼女たちは違います。恐らく、ルカもそうだったのでしょう。彼女たちは全員が全員、別の立場から物事を見ていて、それらが全て異なってしまっている。つまり、神は死んだのです。
ただ、これはそんなに悲観することではないんじゃないかな、って僕は思います。美琴は結局、ルカと別れる選択をしてしまったわけですが、ってここまで書いてキリスト教で三位一体説を取ってることもある、イエス=ルカと別れるってなんかおもろいなとか唐突に思いました。という報告です。とまれルカと別れる選択をした美琴は、パースペクティブの共有が失敗したまま、それを修正することができなかったのかもしれません。だからこそ、彼女たちの中では神様は死んじゃった、ってってことなのでしょう。
一方のにちかはどうでしょうか。彼女も、幸せだったころを思い出して、八雲なみへの憧憬ももちろんあるでしょうけれど、にちかのテーマに幸せがあります。彼女の幸せは、お父さんがいて、はづきさんもいて、そういった家族の中での”アイドル”だったころのお話でした。八雲なみは、彼女にとって幸せの象徴だったのでしょう。しかし、八雲なみはそうなの?という、そうだよ、と背中を押してくれるアイドルでは、本当はありませんでした。でも、そうなの?は、そうだよ、という肯定ではなく、あくまで疑問です。否定をしているわけではなく、そうなの?から、そうだよ、になる可能性だって、僕はあるんじゃないかなって思いますが、まぁいいでしょう。
とにかく、それぞれパースペクティブが違う彼女たち。そいうえば、僕は以前ノクチルに対して、彼女たちはそれぞれコミュニケーション不全を起こしている、ということを言ったことがあります。ただ、ノクチルの場合は彼女たちの中では(それほど)大きなコミュニケーション不全は恐らくなかったでしょう。円香が透の行く末がわからなくなって不安になったりすることもあるので、全くないとは言いませんが、彼女たちは幼馴染の時間という、共有した視点があります。パースペクティブって毎回書くのめんどくさくなったので視点にしますね。今更。
美琴、にちか、ルカには共有した視点がありません。ノーカラットでは、にちかが幸せになろうとしない、あれは自分自身に期待しないことを同時に周りの美琴やダンサーたちに投影してしまったこともあるのかと思いますが、最後の最後でSHHisとして共有した視点を作ることができました。ただ、それを阻むのが、奈落の嫉妬です。そしてさらにややこしいことに、美琴の実力を、パフォーマンスの凄さをルカやPと同じく知っているのがにちかです。
こうしたすれ違い、彼女たちの視点の違いを、神の不在という形で表現してしまったのがルカの楽曲だったのではないでしょうか。これを繋ぐことができるのは、あるいはプロデューサーの役割かもしれません。プロデューサーは、もちろん彼自身の視点はありますが、彼の眼差しは美琴とにちかを水平線上に見据えているものでしょうし、今後そこにルカも入ってくるのかもしれません。大げさに言ってしまえば、プロデューサーが支点になることにより、彼女たちの視点を交錯させられるかもしれません。そしてそれによって、彼女たちがSHHisとして、大文字のH同士のユニットとなれるんじゃないでしょうか。
キリスト教の話を面白がって書こうと思ったら、後半だいぶ脱線してしまいました。そもそもニーチェの概念本当に必要だったんでしょうか。今となってはわかりません。ただ、神様は死んだ、って言われるとやっぱりニーチェ想起させられるよなぁ、と思うと、彼のパースペクティブ主義、あるいは絶対的なものの不在、偶像の死亡なんかがノクチルと近い射程を捉えているような気が少しだけします。
こう見るとノクチルとSHHisの絡みって色々面白そうだなぁ、ってなります。絶対に交わらないですからね。彼女たちのままでいいことを肯定されたノクチルと、八雲なみに”なる”ことでアイドルになったにちか、そしてある意味では自分の神様を追っている美琴。美琴に必要なのは、彼女が追い求めていることは彼女自身にとって正しいと認識して肯定してあげた上で、別の視点を提供してあげることなのかもしれませんね。Pカード全然引けてないので、美琴の話については引いてからいずれまた細かくするかもしれません。
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