見出し画像

【浅倉透LP】未来、イエー

oasis Yeah 

以前透の時間感覚について書いたnoteの序文にて、透のカードと共通コミュの親和性が非常に高いということを書きました。そして今回も例によってというか、GRAD編も含めてなんですが結構親和性が高く感じられた部分がありました。

というわけで、LP編を読むにあたって「おかえり、ギター」は必読かもしれません。またもう一つ、GRAD編も当然大事になってきます。これ書いてて思ったんですが、最近ジャングルジムの片鱗見えないですよね。回収もう終わったわって判断なんですかね、これ。わっかんないわー

Whatever you do
Whatever you say
Yeah I know it's alright
Whatever you do
Whatever you say
Yeah I know it's alright

さていきなり引用しましたが、なんだかわかりますでしょうか。これ、オエイシス(oasis)というバンドの「whatever」という曲です。聞けばどこかで聞いたことあるなってなるでしょうし、大手会社のCMソング(これも重要かもしれない)にも使われています。アサヒやソニー、そしてTOYOTAのCMソングでも使われています。やはり車。

コミュタイトル「オエイシス、イエー」は恐らくこの曲を指してるんじゃないかなと思います。この曲、自由について結構歌ってるんですよね。

I’m free to be whatever I

どんなものにだってなれるんだ、っていうのが歌いだしです。で、この曲でもう一つ大切なポイントは、I’m free to be whatever Iっていうのはもちろんなんですが、Whatever you do Whatever you say Yeah I know it's alrightの部分で、Yeahが入ってるのはもちろんなんですが、ここは I ではなく Youなんですよね。責任取ってくれるんでしょ、一緒に。

ともあれ、なんだってなれるんだっていうのと「おかえり、ギター」がまたしても絡み合います。羽化したばかりのセミを見て、透は鳴かなくてもセミなのかな、なんて言うんです。それに対して黙っててもセミはセミだけど、鳴くやつになろうとしているって返すんですが、これに対する透の返しが結構大切です。

きれいなのにね
めっちゃ 今

透は鳴かないセミはセミですらない、とかそういうことを疑問に思っていたわけではなさそうです。鳴けなくて飛べないけど、キレイなセミを見て、そんなことを思います。もしかしたら、ここの部分は幼なじみであるだけでも、なんてことも示唆しているのかもしれませんね。

セミ=鳴くもの、と認識していた透は、羽化したばかりの鳴けず飛べないものを見て、この瞬間のキレイさを認識します。『天塵』で聞いたことあるなこれ。ともあれ、鳴くだけでない綺麗さ、なんだってなれるんだ、ってことにも結びつくのかなって思います。また、このコミュではゴミかな、なんていうギターの存在がでてきますが、このセミにギターって名付けるんです。And I'll sing the blues if I want

このなんだってなれるんだって歌詞、最初に触れたようにGRADにも大いに関係しているように思えます。思い起こされるのは、「……いいや、私                                      どんな形したのが、私って思われても」というセリフです。Whateverは自己認識の歌詞だと取れますが(youが出ているとはいえ)、GRADのは見る側の、ファンや委員長、トレーナーなどからの他者による認識だと思います。ちょっと考えすぎかもしれないなと思いつつも、このコミュタイトルが「泥の中」になってるの、なんか意味深ですよね。泥の中にいたら、見えるはずないもの。いや、だからこそ、どんな形したのが私って思われたってしょうがない。だって見えないんだから。ということはここ、泥の中にいて”浅倉透”という存在を消費されたっていいんだ、っていう諦めのような気持ちなんでしょうか。もしこの解釈が正しいとしたら、そこで最後に呼びかける「プロデューサー」という言葉の重みってもう言葉にできませんね。泥の中にいても、プロデューサーには呼びかけるんですよ。「いつか誰か」、Someoneじゃない、紛れもない個人に呼びかけているんです。

また、単純に映画館がオアシスイエー、ってことでもあるでしょう。オアシスといえば幻ですよ。消えちゃうことがね、やっぱり定石。めちゃくちゃ先取りして書くと、透は今回最終的にオアシスを幻にしないがための動きをしたんだと思います。

でもしょーじき透のオアシスの場所の割にロクな思い出ないなって思ったのは秘密です。どうしてここがオアシスだったのか。また思いついたら加筆でもしときます。

終わりが意味持つ映画でもねえしな

LP編に戻ります。僕は映画にも明るくないので、元ネタだとされる「太陽を盗んだ男」はよく知りません。なのでちょっと調べてみました。結構おもろそうですね、関連を考えるとしたら。でもまぁ一旦関連についてはおいておきます。見てないんでね。それに、透もラストのことは知りたくないっていってるから、多分見なくても平気です。

「ラスト」で「知りたくないから ラストのことは」と透は言います。直後、映画館の風景が見えてLP編は終了です。この部分はマイナス方向にも捉えることは可能で、人の感想見てても不穏な感じで終わったわ、というような趣旨のものをよく見ました。ラストのことは知りたくないって、なんか目を背けているように見えるんですよね。

では、仮にそれが正しかったとしたら、なにに対して目を背けているんでしょうか。映画館が終わったという事実に対してでしょうか。いや、それは恐らく違います。なぜなら、もう決めたからです。完全に割り切れてはないのはもちろんですが、決めたと言っているのだから決めたんでしょう。

他の選択肢として、知ると終わってしまうという恐怖があるのかもしれません。浅倉透の時間感覚は、循環する今だと僕は以前noteにて書いたのですが、循環する今感覚だとすれば、では終わりはどこにあるんでしょうか。どこにもないんです。解脱するしかないんですかね。余談ですが解脱って輪廻転生からの解脱なんですが、どうして古代インドだと解脱しようってなったかっていうと、古代インドの考え方だと輪廻転生がよくないものだと捉えられていたんです。次の命っていうのが、人間になるのかもわからないし、ハエになるかもしれない。だから輪廻転生という苦しみから解脱しよう、みたいな。更にまた生きられるのではやく、また死ななくてはならないとも考えていたとかなんとか。日本とは考え方違いますよね。ここらへんの違いも中国を経由した、いわば中国仏教が日本に入ってきたのが原因だとされています。

余談は一切内容に関係ありません。なんとなくひけらかしたくなっただけなので先に進みましょう。

透はてっぺんに登る意識があって、今まで漠然と登ってきて遠いなーって思っていた。そこでPと出会って、一緒の登る嬉しさを知って、なんとなく人生長くないなって思いはじめてきた。そういう意味でいうと、終わりがあるっていうのは見ている気はするんです。なのに、ラストは知りたくなくて、循環するような時間感覚を持っている。矛盾してるよな。なんて、まぁ人生矛盾だらけなんですよ。

ともあれこのラストは知りたくないに関しては、もし別の見方を提示できるとすれば、この街は終わらないんです。街はつづく、人生みたいに。なんて言うと、人生おわるじゃんっていうね。さておいて、そこに住む人たちに密着するような施設や寄り添った街を作る(P談)ような企業が、その実浅倉透その人の人生の一部を爆発させておいて、そして透に未来をやるっていう。けれど、未来は分からない。そして終わりも未来です。なにがいいのか、悪いのか、わからないのが未来だからこそ、ラストは知りたくなかった。If it's wrong or right it's all right

まぁちょっと最後に関しては多分複雑なんですよ。一言で表せなくて、上にあげた二つが二つとも正しいかもしれないし、間違ってるかもしれないし。どこにも正解がないかもしれない。ただ、透は街の未来の仕事を引き受けて「怒ってるみたいな、悲しんでるみたいな、挑んでるみたいな」そんな彼女の意志を見せたんです。それだけわかれば、万事オッケーです。きっと。

あとそもそもの話として、透が果たして映画のラストを知りたがっていたのかどうか。なんせ透、何度も映画館に足を運んでいるのにも関わらず、毎回寝たり遅れていったりで一度も最後まで映画を観ていなかったのです。それでも何度も足を運ぶ。映画を観るという理由付けを無理やりして、その映画館に行っているかのように。

彼女にとって映画の結末は大した意味を持っていなかったんじゃないでしょうか。「そんなふうに終わるね」ではこのライターが大好きな時系列シャッフルを行っておりまして、最初の部分は実は結末に近い部分を描いているんですが、その中で透は「どうなったんだろう、続き」と一応続きが気になるような姿勢を見せてはいるんです。でも、それってほんとにあれどうなったんだろうなー、くらいの感覚なんじゃないかなって思います。

「そんなふうに終わるね」は、まさに突然のことを指しているのだろうと思います。映画館がなくなる。晴天の霹靂。でもなかったんですけどね、透もしなしなポップコーンやいつもガラガラの映画館を見ていたから、兆候はあったはずです。だけど、それは浅倉透が関係のない人間であったらの話です。今回は、その映画館がなくなって、更に跡地にできるというのが透に仕事を持ってきた「未来」を持ってきた奴らだったんです。そういう意味で言えば、太陽を盗んだなんて言えるんでしょうか。ドッカーンと爆発させて、居場所を盗んでしまった。もっと言えば、透にとっての未来は盗まれてしまった。ちょっと大げさでしょうか。

腹ペコとーる?

ほんとはこんな最初の方に書くつもりじゃなかったんですが、流れ的に今書いちゃったほうがスマートなので、ここになんで透今回の仕事引き受けたんだ?ってことを書こうと思います。

まずは特にひねらない感じ。単純に、鼻持ちならないインディペンデンスな活動とかいっちゃう広告マンがPに対して言ってたように、今の環境以上のものを透がライブを通して改めて欲しくなってしまったということ。腹ペコ青虫じゃないですが、どんどん食べて、羽化しかけている。まぁ作中の表現だと透はイクラですけどね。シャケ。またしてもシャケ。GRAD・海へ出るつもりじゃなかったしの感想でシャケうんたらはさんざん書いたので割愛しますが、透がイクラだとしたら、今はまだ川にいる。彼女はこれから海に出ていくことになるんでしょう。そして、また川に戻ってくるのがシャケです。ということは、まだまだ浅倉透の物語は孵化してすらいなかった。LP編でようやく、始まったと言えるでしょう。

ところでこのシャケということを考えてみると、広告マンのおっきい餌場みたいな発言、要するに川から海へ、ってことになりますよね。でも、最終的には川に戻ってくる。ただ、シャケの話が出たのはノクチルのストイベでしたので、シャケはノクチル全体を指していると捉えるのが妥当だと思いますが、だとすれば透個人に捉え直すのも十分可能でしょう。この餌場ということは、イクラから孵化した透が海へと”餌”を求めにいきます(鮭が海に出る理由も餌を求めてる)。しかし、産卵のために再び川に戻ってくる。そう考えれば、広告マンの捉え方は一面では正しくも、しかしそれだけではないような気がしてなりません。

ともあれ、透が拒否した仕事も、結局はそうしたもっと食べたくなってしまった透が、その気持ちに気づいた結果、改めて受けたのだということです。これは最もひねりがなく、スタンダードで、間違ってるなとは言えないようなものでしょう。

広告マンのカタカナ語キライ

でも、僕はこれ嫌いです。好みの問題の話ですが、これは嫌いなんです。透にはもしその動機だとしたら、『天塵』のように突っぱねてほしくなってしまうんです。だから、合ってる・合ってないとかではなく、嫌いなので別のことを頑張って考えました。もちろん、先程のシャケの話のように、やはり一面では拒否しきれない部分もあるとは思うんですけれども。

まず、LP編でWING編のように透とプロデューサーとの不和が示されました。これは、最後まで解消しないどころか、大きな断絶を産んでいます。しかし、コミュ内ではそれは示されていません。

では、大きな断絶とはなんでしょうか。それは、透の自己認識である「ミジンコのような」存在でありたいという思いと、プロデューサーひいては透に魅力を感じている全ての人が彼女に対して抱いている腹ペコである、今までのコミュで言うならば捕食者側の認識ということです。

もちろん、以前めちゃくちゃ長く書いたnoteにもあるように、被捕食者であるミジンコは同時に植物性プランクトンを食べる捕食者でもあります。そして、ライブ大成功などのコミュでも、透が飢えていることを示す描写があります。だから、プロデューサーたちが思っている透への認識というのもそう遠くはないのかもしれません。

このプロデューサーや広告マンの認識というのは、先程僕がスタンダードで間違っているとは言えない、といった仕事を受けた動機そのまんまです。また上述したように、透自身も腹ペコだという自覚があるんです。「ラスト」の「欲しい もっと」という発言を考えてみても、ますますスタンダードな動機だと思います。でも、そのように捉えていいんでしょうか。いや、僕は違うと思います。

ライブ中の個人コミュで、プロデューサーは透に対してこんなことを思っています。

――でも、わかってるんだろ
ステージが透を逃さない
カメラも、モニターも、お客さんも
……この世界が透を逃さないよ
たくさんの心臓が脈を打ってる
その音に、その匂いに――
――ひかれてるんだろ、透

この言葉は、3曲目前の個人コミュで透が語る、わかんないけど、ここにいるときは、どうしたらいいか分かるんだ。という発言をしてるのとリンクしています。ただ、リンクしているとはいえ、透の認識と同じかどうかは僕は疑問です。

正直透LP編のプロデューサーは、GRAD編のイケメンムーブどこいったんやってくらいでした。いってしまえば、鼻持ちならない広告マンに流されてないか?っていう。透のことを知っていきたいんだ、って思っていたはずのプロデューサーだったのに、なんか今回のコミュに関してはやたら決めつけたりしてますよね。いけない兆候だぞ。多分透そういうの一番キライ。多分だからこれは決めつけでは無い。ないったらない。

もちろんWING編を見ていると、わかっていてくれたはずだったのに、っていう思いを透は抱いていました。なんせ透にとっては同じジャングルジムで唯一一緒に登ってくれる相手だと認識していたんですから、要するに頂上に登っていくというので、見てる方向一緒じゃんってことです。だけど実際には、同じジャングルジムを登っていたとしても、全てが分かるわけじゃなかった。ただ、同じく登っているといことだけは間違いないことだと認識できたのがWING編でした。だからこそ透はそこで、「ちゃんと伝えようと思って 自分のこと」と考えられたのです。

なのにも関わらず、LP編のプロデューサーは、先程引用した部分もそうですし、どうして写真を一緒に撮ってはだめだったのかの理由を上手に伝えられません。まぁ一緒に撮影した相手の外見がギャルっぽくて、企業イメージを損なうだなんて言いづらいかもしれませんし、だから上手に伝えられなかったのかもしれません。代わりに半目だから、なんていう趣旨で伝えてしまったのかもしれません。そういうのを省みてなのか、今回俺ももうちょっと言葉にすると考え直したようですが、結局なんか上手くいってないような気がしてしまいましたね。

まぁ今回プロデューサーが上手にできなかった理由の一つに、まだ迷っているからってことがあげられます。でも、だからこそライブ前の決めつけはよくなかったと余計に思えてなりません。自由にいてほしいし、なんだったらアイドルが重荷になってるんだったら辞めてもいいんだ、なんて考えていたプロデューサー、どこいっちゃったんでしょう。

「つづく、」コミュなんかは、汲んであげようとしっかり対話しようとしているイメージがあったから、こういうことなんじゃないか?とか、こういう見方もあるだろう、みたいな感じで透に透だけでは考えられなかった部分を見せてやることができていたと思います。今回はどうでしょうね。結構僕は否定的です。

だから、このコミュが不穏に感じられてしまうのって、プロデューサーがちょっと今までと違う考えになりつつあるところだと思います。この世界が透を逃さないよ、とか言ってほしくないです僕は。自由でいてほしいんだ、とか言っておきながらですよ。加えて言えば、この世界が、なんて言う時点で何もかも呑み込むような存在という認識と矛盾すらしています。もちろん、プロデューサーは透に非常に期待しているからなんだろうっていうのは理解できます。でも、それにしたってねぇ。

というか、浅倉透は芸能界的な世界に囚われるような存在なんでしょうかね。期待しすぎでしょうか。そんな枠に収まらないんじゃないですかね、Pの認識が正しいなら。むしろ、Pは透をフレームに収めておくことで安心したかったのかもしれない。理解の範疇へと、知らず知らずのうちに。

”アイドル浅倉透”は浅倉透の粉々

さて、プロデューサーにダメ出しが続いて参りましたが、以上のことも含めて、透が今回仕事を受けることに考え直した部分、スタンダードな動機で捉えたくないのです。

じゃあなんだったのか。長かったですがようやくここに戻ってきました。僕個人としては、まず透はプロデューサーが”アイドル浅倉透”ではなく、”浅倉透”に対して向き合ってくれようとしていたと認識できた部分が一つ。

いやね、ほんと透の口から「カレシ」って単語が飛び出すと思ってなかったんで、もう最高でした。LP編これだけで実装してくれてありがとうレベルです。最高。ともあれ、このカレシだよ、っていうのは、透がヤンキーっぽい女の子と写真を撮ったことに起因します。透はそこで怒られた理由が、私個人のことではなく、事務所の事情だと強く感じました。透からすれば、見られる意識が多少ついてきたとはいえ、日常の浅倉透と大差ないのです。あるいは、写真を撮ったらファンになるかも~っていう発言に対して、マジ?じゃあいいよ、って言ってるから、彼女なりの”アイドル活動”だった可能性も否定できません。

にも関わらず、企業イメージがあるからと、透の考えたことを彼女自身が怒られたと感じてしまったら、そりゃスネてもしょうがありません。それに、彼女自身恐らくそんなに意識してないでしょうから、億ある?なんてプロデューサーに聞いてしまうんです。彼女自身、事務所、プロデューサーに迷惑かけようと思っているわけじゃないから、あそこのSOSサインのを見逃したプロデューサーが悪い。全部悪い。今回はGRAD編みたいなムーブできてないからプロデューサーが悪い。SOSをもっと拾ってやってくれ。一人で全員の面倒見てるから過労だとは思うけど。

結果、そのSOSサインを見過ごしてしまったので、カレシなんて透に反抗されてしまいました。まぁプロデューサー側の論理としては、事務所以外にいい場所があったんなら、俺はそれで……ってことだったんでしょうけど、そこがそもそもの間違いなんです。いや、映画館が透の拠り所となっていたのは間違いなくて、そう考えること自体はいいんです。でも、そのせいで透が見放されたと思ってしまってはよくないんですよ。結果、透はカレシって言って、心配なのは事務所でしょ、”未来”なんて分からないものに、やなこともあるけど、もっといいこともあるなんていう詭弁で仕事を請けろっていうんでしょ――事務所のために。なんて思われてしまうわけなんですよ。

ただ、ここでギリギリ正解を引けたので、いや正解っていっても50点くらいでまぁ次回に期待しようくらいなんですけど、透に責任を押し付けるのではなく”一緒”に考えようと透に提案できました。ここも褒められはしないですが、ほんとギリギリでしたね。透に見限られるの精神的にヤバそうなので、今後はそうならないようにしてください。

ともあれ、ここで大体引き受けてくれるような動機はあったんです。ようやくプロデューサーが向き合ってくれたってことで。もちろん、事務所とでも引き受けてはくれましたが、不承不承という感じでした。

ですが、ここでその透の拠り所だった映画館が失くなってしまいます。ここの無理だわー、めっちゃいいですよね。シンプルにいい。ちなみにまたちょっと余談挟んで申し訳ないんですが、ライブ直前コミュの心配?って、あれもいいですよね。透がPラブ否定派からするとここまでの論の進め方が恋愛に偏りすぎやろって思って拒否反応出てると思いますが、僕の中ではもうそうやって答えがでてしまっているので、ここの心配?も可愛くてしょうがないんですよね。なのになんの心配だとかいっちゃうし、いやこれわかってんのかな。

運営は透ルートを完結させるコンシューマを出すべき

ともあれ、透が引き受けた動機ですが、ここはコミュにないので僕の今までの透に対する考え方からの解釈となります。というのは前置きしておきます。まず前提として、透が仕事を引き受けようが引き受けなかろうが、映画館が無くなることは決定しています。そして仮に引き受けなかったとしても、透以外の誰かがその企業の広告塔となることは明らかです。

一度は拒否反応を示した透でしたが、ライブ中はわからないけどここならどうすればいいか分かるんだ、と言いました。だから、きっとライブ中に透はなにかを気づいたんじゃないでしょうか。この気付きっていうのが、私が引き受けても引き受けなくても、映画館が無くなるという事実だったのかもしれません。

そして、彼女はこの仕事を引き受けると考え直して、映画館を潰した”私の看板”を、GRADのようにSNS上の人たちではない、確かにいた映画館のおばちゃん、女子学生、男の職員が見るのかもしれないと。

だから、結局のところ彼女が起こした行動は『天塵』と同じように反抗です。しかし、今度は仕事を拒否するというものではなく、仕事を完璧に引き受けた上で、「未来」へというキャッチコピーに合わせた――過去への眼差しがなく、無辜に未来が”よい”ものだと信じるような――笑顔ではなく、確かにここに映画館があったんだ。怒ってるみたいな、悲しんでるみたいな、挑んでるみたいな、そんな微笑みでもって、最大の反抗を成し遂げます。

このシーンに対してというわけではないのですが、noteを見ていたら一ついい感想だな、と思った部分がありました。ちょっと長いですが引用します(許可取り済)。

透の中には、口に出されなかった感情や感覚が、これまでずっと澱のように溜まり続けてきていた。言葉にしたくても出来ずにいたじれったさ。長い間ちょっとずつ蓄積されてきたそうした思いが、いつしか今にも爆発しそうな爆弾となっていた。その存在に透自身が気付く話が、浅倉透の「Landing Point」編だったのではないか。     
白木軽骨 ”Is She Got the Sun?” https://note.com/zuidou/n/nc3028fbbefcd

彼女はここで、どうすればいいのか分かるんだ、というような、要するにカメラに撮られる自分の振る舞い方ではなく、『天塵』で見せた反抗のように、彼女自身をさらけ出して、そして更にそれがクライアントの要望ではなくても通させてしまうような、そんな凄まじい芸当を披露しました。

その、今までわだかまっていた部分、どうすればいいか分かるんだ、っていう部分が爆発して、彼女自身の中に溜まっていた諸々を発見した、っていうのが引用した部分なんですが、なかなか正鵠を射ているように思います。個人的には今まで言語化する必要がなかった(幼なじみの枠でいる限りは)というスタンスなので、一から十まで一緒というわけではないものの、少なくとも今回のコミュで透自身の中に澱があったのは確かだと思います。

また、一つ前の見出しの話ですが、透のミジンコのような存在になりたいという気持ちと、周りの透への認識の食い違いということに触れました。引用した文章のように、なにかが透の中にわだかまっていて、それを解放すること、引用した文章では「その存在に透自身が気付く話」とありますが、これも関わっているんじゃないでしょうか。そういう意味でいうと、透の自己認識が多少変化した可能性もあるので、一概にPたちの捉え方が違うとは言えないだろうとは思います。

ただ、ミジンコのような、循環していく生命の一つという透の意識それ自体は今後も変わらない根幹のようなものな気がしてならないのです。P風にいうと、透がつかんだことですから。ただどうしても、透には――円香すらも天塵で不安に思ったように――そう思いながらもガンガン先に進んでしまうことがあります。そうした部分が彼女の自己認識とは裏腹に、周囲に与えてしまう影響なのでしょう。僕としては、Pは周囲にいる人たちと同様の認識を透にしてしまっているので、いつしかこの部分が解消されるような、もっとお互いに言葉にしていくのが大切だと思います。「おかえり、ギター」の感想でノクチルコミュニケーション不全を起こしてるよね、なんて書いてたんですが、Pもがんばらんとね。

ともあれ以上の捉え方を僕はしているので、スタンダードな方向ではいきたくないです。だから、僕はプロデューサーとも真っ向から今回は対立しています。これが合っているかどうかは、次回以降で分かることでしょう。いや、一生わからないかも。悲しいけどこれソシャゲなのよね。はやくコンシューマを出してくれ。透ENDがみたいんです僕は。切実に。透単独でも10000円くらいまでなら出します。12万天井セレチケガチャとかいいんで、よろしくおねがいします。

ミジンコ、爆発、”未来になる”、”未来にする”

ここまでで約10000文字と大部になってしまいましたし、大体LP編はこれで言い尽くしたような気もしますが、もう一つ触れたい内容として、爆発したい散らばりたい、って透が言う場面がありますよね。あれ、泥の中にいるミジンコみたいになりたい、っていうのと結構似てます。

でも、爆発して、粉々になって、散らばって。これは、いつか命の一つになって食べてくれたら、とは小さな物質という点では共通していますが、なんか違いますよね。

命の一つになって食べられたら、それは循環していきます。循環する時間がそこにはあります。だけど、爆発して粉々になって、街中を火だるまにしてしまって。そこに、循環するなにかがあるんでしょうか。

結果として、街を焼いたのは透に仕事を持ってきたデベロッパーでしたが、「ラスト」でもまだ透は爆発するかもしれないという示唆をしています。では、その爆発とはなにか。

「おかえり、ギター」では、透は被捕食者としての側面を非常に強調して描写されています。カメラが生きていて、それに食べられてやるんだ。時々。そして、ギターに対して、生まれ変わるってどういう感じ?と聞いています。つまり、ここでの透は被捕食者として、カメラに食べられて演じることができています。I’m free to be whatever I 今回oasis推しなので随所にはさみます。

ただ、被捕食者といっても、どんなモノにだってなれるんだ!生まれ変わるってどんな感じ?ギター。と問いかけている部分では、受け身でありながらも能動的な意志を感じさせます。ただ、恐らくここでの透、あるいはGRADでのミジンコ発言など、彼女自身はその意識があったのかなかったのか、いずれにせよ感覚として演じることをしていました。ナレーション然り、無理して受けた仕事然り。

誰も泥の中にいる透の姿をしっかりとした形で視認することはできません。だから色々に分かれてしまうのですが、それでもいいといったのがGRADでした。先程引用したように、爆弾となった透は、それでもいいや、という意志があるいは変化した可能性もあります。

つまり、彼女自身を全面に押し出す、『天塵』のころのように、カメラの前で被捕食者として振る舞うのではなく、むしろ全てを飲み込んでしまうような、求められた振る舞いではなく、彼女が振る舞ったことを正解にするのです。

この言葉遣い、どこかで覚えがないでしょうか。そう、「つづく、」コミュでの「現実に”する”」(傍点筆者)という発言です。この部分を言い換えれば、浅倉透はこれが「正解になる」のではなく、「正解にする」という行いをLP編ではしたのです。

GRAD編からの変遷としては、やはり上述のように、GRADでは「正解にする」方法がわからなかった。だから、頑張っているなって思う委員長に求められた振る舞いをしたり、トレーナーに100周走れと言われたら走ったし、仕事だって引き受けた。もちろん、GRAD編ではこれらを頑張る、生きる、というようなことと紐付けています。ただ、GRAD編で透が気づいたことは、頑張って「正解になる」ということだったのかもしれません。それがつまり、どういうふうに見られたっていい、ミジンコみたいな存在だということです。

LP編ではどうか。根本的な部分は変わっていないと思います。結局「正解にする」のだとしても、浅倉透を見たいように見る人は大勢いますし、それはなにもシャニマス世界だけでなく現実だってそうでしょう。それに加えて芸能人なんて普段交流ないですし、余計にわかりません。近くにいる人だってわからないのに、しょうがないですね。

さておき、けれどここでの転換はやはり受動から能動へということが大きいでしょう。すでに透はプロデューサーに対しては「現実にする」という強い予言・働きかけを行っています。そして今回LP編では、映画館が潰れて失くなった。それが”未来”(恐らくいい未来)になる。これを透は否定しました。もちろん、映画館が無くなるという事実は変えられません。けれど、自分自身が看板となって、その意味を変化させることはできるんじゃないでしょうか。そして、彼女がたたえた微笑みが、映画館にいた人たちに一体どのような印象を与えるかは分からないけれど、彼女自身がかつてのジャングルジムを現在にしているように、微笑みも映画館を過去に葬ってしまうのではなく、イマにしているのではないでしょうか。

結局ここまで書いて先程のどうして仕事を引き受けたのか?っていう部分と関連してしまうんですけど、透の挑戦的な微笑みによって、街づくりの未来は決して全員がハッピーに”なる”ものではないという、そういった働きかけを行うことができるようになったのです。まぁ再開発とか色々ありますしね。南無三。

カタマリは透明、粉々は?

爆弾に戻ります。「おかえり、ギター」のTrueコミュで、かたまりだった音楽がギターっていうものに分解されて、増えたっていうんです。もしかしたら透は、浅倉透っていうかたまりではなく、粉々にバラバラになった、いろいろなものになりたいという、途方も無い野望を秘めているんでしょうか。でもなんででしょうね。わからん。それがジャングルジムを登っていくこととつながるのかもしれませんし、そうじゃないかもしれない。こじつけて考えれば、今回のLP編を見て「透明だった僕たち」とさよならするんだな、なんていう感想をちょっとだけ見かけました。で、以前僕も透明だった僕たちに関して述べているんですが、そのときは幼なじみという透明な繋がりが、ノクチルという呼称を伴ったことに対するキャッチコピーなんだな、という解釈をしていました。

ただ、どうなんでしょうねこれは。透の爆弾発言を考えてみたり、GRADのどんなふうに見られたっていいや発言を考えてみると、彼女たち自身は透明であることを辞めていないんじゃないでしょうか。つまり、透明じゃなくなるのは彼女たち自身ではなく、プロデューサーや委員長、広告マン、住職、ファンその他いろいろな存在が彼女たちを透明に扱わなくなるということではないでしょうか。

だからこそ、透は粉々になって散らばりたく思ったんじゃないでしょうか。きっと、そうすれば浅倉透というかたまりから、例えばギターというものが増えたように、なにがしか抽出されたものが散らばります。それこそ、「浅倉透 17歳 アイドルやってます」なんてのも。

そう考えてみれば、やっぱりプロデューサーが大事なんですよ。責任取ってくれるんでしょ、一緒に。とか言ってさぁ、ほんとさぁ、ねぇ。爆発して散らばったって、透明な浅倉透と一緒にいてやれるのはプロデューサーしかおらんのやぞ。もちろん円香とか小糸とか雛菜もだけど。でも責任とってもらうのはプロデューサーなんだからな。そこはしっかり頭に入れておいて貰わんと、ほんとだめですよ。

良くも悪くもLanding Point となった今回のコミュですが、ほんとに着陸できたんですかね。まぁ、透が”なる”から”する”への意識を明確にしたということは、あるいは離陸したのかもしれませんけど、果たして着陸できるんでしょうか。いざ”する”ことに自覚したとはいえ、今までの話の流れ的に絶対どっかでつまずくというか、モヤモヤしだすし。プロデューサーも急に言葉足りなくなるし。浅倉透に心配はしませんでしたが、ただひたすらにプロデューサーが心配となったLanding Pointでした。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?