人間の完全犯罪性【小説のかけら】
「人間には、踏み入ったらいけないと分かっているのに吸い込まれていく場所ややらないほうがいいのにやってしまうことがあるみたいだね。
人間は結局インプットしたものに影響を受けるわけだから、頭で考えれば、何をインプットしたほうが幸せになるかなんてことは分かってるはずなのに、あえて、心が暗くなったり、孤独に向かうものをインプットしにいくことがあるんだ。
人間の暗部を描いた小説なんか読まないほうがいいことなんて分かっているのに、そんな物語に吸い寄せられていく。今の僕がまさにそうだよ。
自分の立場や周囲から期待されていることは分かっているんだよ。でもカラダがそっちに向かわない。
結果、どんなに責められようが、責任を追及されようが、僕からでる言い訳は一つだよ。
そうするしかなかったんだとしか言いようがない。理屈じゃないんだカラダが言うことを聞かないんだ。
きっと、僕たちはそうするしかなかったんだという世界を生きているんだよ。
今、僕はそう思えて仕方ないんだ。この10年は、それが概ね周囲が僕に求めていることからズレていなかっただけなんだよ。
それは、奇跡だったのかもしれないし、ただ、僕が夢をみていることに気づかずにこの世界に
浮遊できていただけかもしれない。夢から覚めてしまったら、同じようにはいかないよ。
周囲の求めに対して疑いを持たず、ガムシャラになれるなんてこれからの僕にそんなことができると思えないんだ。
それが僕の葛藤だよ。今の君には僕の気持ちが分からないかもしれないけど、僕はこの気持ちを体内にため込んだまま生活するのが苦しんだよ。だから、許してほしい。」
「あなたは、少なくともこの10年間は夢をみれてたんだね。私は、そんなに長い間夢を見続けれた経験はないよ。だからあなたを尊敬する。それはすごいことだよ。嫌味じゃないよ。本当に。私も長い夢を見てみたい。」
「君はこれからも夢をみれそうにないと思ってるの?」
「そうね。難しいと思う。長い夢はみれそうにない。だから、昔から小説を読むの。その物語を読んでいる時は、少なくとも夢の中に入れるから。でも、小説の中に入っていると、現実の世界が一層フワフワしたものになってしまうんだけどね。」
「今の僕にはこの世の中の全てが滑稽なものに見えて仕方ないんだ。
だってそうだろう。僕たちはそれぞれ行動も言葉も生き方も選択しているわけじゃないのに、
選択していると信じ込んでいる。ほとんどの人が。僕だってそうだったよ。
学生時代は野球をしていたけど、僕は周りの人より背も低く骨格も華奢でかなり痩せてたんだ。高校野球っていうのは悲惨でね。打席に立ったら、周囲から一斉に視線を浴びるんだ。
そして相手チームは、僕の体格を見て、ユニフォームのダボツキを見てさ、守備位置を一気に前進してくるんだ。キャッチャーなんかがあからさまに、外野手に前に来るように指示するんだ。
チームメイトや周りの人たちは僕に飯をもっと食えって簡単に言うんだ。僕は、僕が痩せすぎていることや筋肉が不足していること、背が低いことまで僕の努力が足りないんだと思わずにはいられなかったよ。僕は必死でご飯を食べようとするんだけど、たくさんは食べれなかったし、筋トレしたって、筋肉に変わる肉がたいしてなかったし。こういうのを世間では言い訳というんだろうけどね。」
「私もよ。もっと明るくなりなさいとか、自分の考えを言いなさいとか、よく言われて悩んでた。暗くなろうとして暗くしているわけではないし、大勢の人を前にしたら、言葉は出てこないし。
私には、大事な何かが欠落してるんだ。私の頑張りが足りないんだって自分に言い聞かせていた。私は、あなたの言っていることが完全には理解できてないと思うけど、何となく半分ぐらいは分かるような気がするわ。
それと、私から見るとあなたは成功者だけどね。あなたはよく生きてきたじゃない?」
「そうだね。自分でもそう思う。野球と比べると、ビジネスは僕にとっては戦いやすいフィールドだった。
たしかに、苦しい局面は多かったけど、僕はいつも僕というカラダが高校野球で生き抜こうとする時と比較してとても恵まれていると思っていたよ。社会に出て営業を始めて、すぐ気づいたもんだ。みんなが相手に分かりやすく伝えることや商品の説明をすることに四苦八苦している時、僕はそれほどの努力もせずに、言葉が流れてきた。それは不思議な感覚だった。
僕はそのころから薄々気づいていたんだと思う。野球がうまいやつは僕のこの感覚で強い打球を打ったり、遠くにボールを投げたりしていたんだと。
僕は、僕に備わっていた言語の力、またそれに付随した力を巧みに利用してきたんだと思う。それは、僕が利用したのではなく、僕に備わる生命の根源みたいなものが利用してたんだと思う。一言で言うと僕に備わった生命力が僕が思っているよりまずまず備わっていたのかもしれない。」
「私にはそれほど備わっていなかった。」
彼女は寂しさを内在した微笑みを浮かべながら呟いた。
僕は、今向き合っているこの人は誰なんだろうと思った。年齢は僕と同じ40歳前後に思える。
性別は女性。僕とは深い関係を持つはず。ただ、誰なのかがよく分からない。なぜ、今こうしてカフェで向き合っているのか。それは誰が設定したのか。僕の仕業なのか。僕に内在する生命の根源のようなヤツの仕業なのか。確かなのは、僕が今彼女を必要としていること。そのことだ。僕はこの人生の迷路から抜け出すきっかけや今まで見つけることができていない隠し扉を必要としているのだ。そのために僕は誰かからアドバイスを求めているわけではなかった。ただ、僕は僕に内在するヤツの言葉を聞きたかった。ヤツが発する言葉からしか僕の必要とするものは手に入らないことを僕はすでに自覚してしまっているのだ。変な言い方だし、迷惑な話だけど、ヤツの言葉を聞くために、ヤツの考えを確認するために、僕は目の前の彼女を必要としているのだ。そして、その役を務めてくれるのは彼女しかいない気がした。少なくとも彼女が適任に思えた。彼女以外は誰も引き受けたくないだろうその役を彼女は喜んで引き受けてくれていた。少なくとも、ここまでは。少なくとも僕にはそのように感じる。
「この社会は、生命力で溢れている。もちろん人間だけではない。植物も昆虫も、その他信じられない生命がものすごいエネルギーを内在し、この地球に同居している。その中で人間という生き物はまたとんでもない奴らなんだ。」
「あなたは会社の中で役職者だもんね。多くの部下を抱えている。だから余計にそのようなことを感じるのかな?」
「小さな組織だからね。人間の生命力を感じ取りやすい規模なんだ。組織の中で日々起こっている出来事を表面的に眺めれば、それぞれが対話をし、業務に向き合い、組織を前進させている、それだけのことなんだけど、実際には、生命力と生命力のぶつかりや融合がすさまじい。今の僕にはそのように感じるんだ。生命力の強いものは、あらゆる手を尽くし現実を創り上げていく。これはね、もう本人が頭で考えて戦略的に行えるようなレベルじゃないんだよ。生命力の強いものは、自覚なくカラダがというか、ヤツらが勝手に現実を創り上げていくんだ。その出来上がった現実に、後から自分がどう考えて、またどう意図してきたのかを僕らは語っているだけなんだ。少なくとも僕にはそのように感じる。少なくとも僕は、僕のカラダはそのように今起きている現実世界まで運ばれてきた。」
「あくまで運ばれてきたなのね。」
「そう。運んできたじゃなくて運ばれてきただよ。そこは強調させてもらいたいところ。」
「あなたはおもしろいね。私の考えていないことをたくさん考えている。」
「考えようとしていない。勝手に思考が動くだけ。思考を続けると体内に何かが溜まっていく。それを体内に蓄えておくのにはある程度限界がある。だから僕は今君を必要としている。」
「壁打ち相手を必要としているのね。」
「そう。雨が大地を必要とするように。僕からすると君は大地のように大きな包容力がある。」
「今人生において、一番の褒め言葉に直面してるかもしれないわ。素直に喜んでいいのかな。
私はその行為があまり得意ではないけど。」
「できたら素直に喜んでくれるかな。目の前の人の喜びは僕の喜びになるから。」
20代と思われる若い店員が水の交換を勧めてくれた。彼女はマスクをつけていた。
そのマスクが彼女の笑顔の奥深くに隠されている何かを連想させた。僕はその何かにできるだけ触らないような意識で水はまだいらないという合図をした。目の前の彼女も同じような手順で水を丁寧に断った。
「僕の知り合いに高い給料をもらっているサラリーマンだった人間で、独立して自分で会社をたちあげた男が何人もいるんだ。傍から見てると、わざわざ苦労する環境に吸い込まれるように向かっていく姿が何とも言えないんだけど。
本人も止められないんだと思う。そんな男たちを見ているとさ。彼らは何かに動かされてそうするしかないんだろうなって思う。それはまるで完全犯罪のように。犯人は決して表に出てこない。しかも何の痕跡も残さず実行しているように僕には見えるんだ。犯人として容疑をかけられることもなくね。これほどの完全犯罪はなかなかできないよ。」
「完全犯罪・・・。なるほどねぇ。やっぱりあなたはおもしろいこと考えるね。」