落語とダジャレと親父ギャグ
やってしまった。
「落語とダジャレと親父ギャグ」とは、なんとも手間の掛かるテーマにしたものだ。
この難度の高いエッセイを書き終わるまでに何度ため息をつく事になるだろうか。
私は落語を観に行ったこともないし、普段から笑点を観ている訳でもない。だがダジャレなら言ったことがある。
「私はダジャレなんか言ったことありません。」なんて人はいないだろう。
そのつもりがなくても、なんとなく話した会話が偶然ダジャレになって恥ずかしい思いをしたことがある人も絶対にいると思う。(馬肉を食べてうまいとか)
なんだかエッセイっぽくなってきた。
落語とダジャレは繋がっている。
「駄洒落」とは、古くから知識や教養を取り入れたユーモアとして落語に取り入れられていたらしい。
それは現代まで受け継がれてきた文化でもあるが、その文化を持たない若者からすると、ダジャレはおっさんが言う親父ギャグになる。
一昔前までは、親父ギャグが忌み嫌われる事はなかったようだが、今日では洒落文化を持たない若者とおっさんとの異文化交流によって寒さを感じてしまうのかもしれない。
しかし、人間は歳をとると理性を司る脳の神経が老化と疲労から衰え、思わず親父ギャグを言ってしまう。というのも事実。
ここでへぇ。と思っていただきたい。
なので、おっさんが言う親父ギャグをどうか許してやってほしい。
おっさんは、老化と疲労からくる神経の衰えから
脳の出す「ダジャレを言え」という命令に
NOとは言えないのだ。
私も疲れている。
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