ゼクシィを鍋敷きに使ってやった
「ぶっくれは結婚諦めてんじゃん!」
と、言われたことを未だに根に持っている。
結婚できなそう!とからかわれて落ち込んでいる友人をフォローしている最中、結婚できなそう!と言われて落ち込んでいる友人本人にだ。
そもそも「結婚できなそう」という発言も酷い侮辱だと思う。こっちだって頼まれたってお前となんか結婚しねえよ。という話である。まあ、それは置いておくとして、
援護射撃してたら急に振り向いて額を撃ち抜かれた気分だった。
わたし自身が、言葉の選び方に神経質な事は自覚している。
とはいえ、何もわざわざ、その言葉を選ばんでも…
言葉の選び方が下手なのか?
いやでも、根底で相手を見下してなきゃ出てこねえぞ。
恋愛や結婚に積極的な姿勢を見せないだけで「結婚を諦めてる女」と思われていたのかと、スーッと何かが引いていく気持ちになった。
「諦めてる」はどう転んでもプラスの意味に捉えられない。
私は過去の経験から「一人の方が楽かも?」と思ったから、結婚という選択肢を「絶対」という枠から「縁があれば」に移動せさせただけなのに。
一人の気楽さを凌駕する出会いがあれば結婚に踏み切るだろう。恋バナwの度に、そう伝えてもいたはずだ。
だが「多様性」という言葉がよく聞かれるようになった現代でも、未だにこの感覚を理解されることは難しいようだ。
この世にはありとあらゆる呪いが蔓延っている。
女のくせに、男らしくない、は序の口。趣味を楽しんでいると、そんなことして何の意味があるの?と来れば、恋人が有らずんば、人に非ず。とくる。
どんな選択をしても誰も責任をとってくれないのに、口出ししてくる。
わたしは「他の人ができてる事ができない」という呪いにかかっていたと思う。
幼稚園ではみんな上手にハーモニカが吹けてるのに自分はできない。小学校では引き算と割り算ができない。中高は彼氏ができない。キスもセックスもしたことが無い。まともな仕事に就けない。結婚。出産。みんなが当たり前にできているであろうことが、自分にはできない。
大人になって振り返ってみたら、向き不向き、得手不得手、がそれぞれあったし、わたしがそつ無くこなすことを難しそうにしていた友達もいたはずだ。
それなのに、自分の「出来ない」部分にばかり目がいって、常に焦っていた。恥ずかしかった。
「できなきゃ恥ずかしい事だよ」っていう他人のものさし、この世に蔓延る「常識」という名の「偏見」で、自分を測っていたからそう感じていただけで、「別に自分はそれ必要ないんで」という自分の軸で見ればどうってないことだったんだなと思う。
他の人はできるのに、自分はどうしてできないんだろう。という考えは非常に危険で、常にわたしを苦しめてきた。
年を負う毎に「結婚」は自分を追い詰める。
それこそ彼氏ができたことのなかった二十歳の頃から「男の人はいくつになっても結婚できるけど女は若いうちに結婚しないと」と言ってきた。いつの頃からか、知らぬ間に染み付いた呪いだ。
勿論、女性には出産のタイムリミットがあるから、結婚を望むなら早いうちから動くに越したことはないだろう。
未だに眠れない夜などは「結婚=普通」という呪いに襲われる。
結婚に積極的では無いと言いつつも、手遅れになった頃に孤独に襲われるのではないかと、怖くて仕方なくなる時がある。
同棲、半同棲、を経験したわたしは、人と暮らす事に不向きであると思い知っている。家族とですら息がつまる。
経験として思い知っているのに、人と一緒に暮らす苦痛を我慢してでも、今すぐ相手を見つけるべきではないだろうか。結婚に焦るべきじゃないかと焦燥感にかられる夜が何度もある。
そんな日は脳内で「あーーーーーーーーーーー」と唱えてや無理矢理寝る。
「結婚ができないなら、結婚と引き換えに何か大きな事を成し遂げるべき」
これも、夢を諦め地元に戻った、「何者か」になるために足掻いていた、ほんの数年前までわたしを縛り付けていた呪いだ。
(この呪いの他に、人は苦労していなければいけない。悩んでいなければいけない。という呪いにもかかっていた。人生を楽しく過ごす事に罪悪感を覚えていた。)
少々乱暴な言い方になるが、自己肯定感の低い人間が手っ取り早く自己肯定感を高めたいなら、恋人を作るのが一番の近道だと思う。
誰かに求められている自分、誰かに愛されている自分、で「自分」というものを確立できるからだ。
ただ当然それだと、恋人を失った時がやばい。
自分が「ただの自分」として確立していないので、自分がまるで価値のない人間のように錯覚してしまう。
夢を諦め、歳を取り、今さら何かを成し遂げるには遅すぎるわたしには、結婚しか「みんなと同じ道」を歩む術はないと思い込んでいた。
だから元彼と別れた直後、スピリチュアルに傾倒した。
YouTubeで無料のタロット占いの動画をたくさん見た。
どれを選んでも「あなたは正しい道を歩んでますよ」「もうすぐ未来が開けますよ」「そのままのあなたでいいんですよ」「今まで本当によく頑張ってきましたね」と言ってくれる占い師さんで、「どれを選んでも一緒」というからくりに気づく頃には、虚無と添い寝する朝を迎えることは少なくなっていった。
「そのままのあなたで」J-popで腐る程聞いたフレーズであったが、その意味を本当に理解した事があっただろうか。
「何者か」にならねば、と足掻いていた頃は思いもよらなかったが、有難い事に自分を過干渉気味に愛してくれる親がいて、気にかけてくれる友人がいて、頼りにしてくれる職場があって、今の自分のままで、嘆くことは無いんじゃないか?
と、思った瞬間、悟りを開いたように人生が楽しくなり、「そのままのあなたで」というありふれたフレーズにとても感動し、今まで「誰かの恋人」という肩書きで、自分をブランディングしようとしていた事の愚かさに気がついた。
恋愛も結婚も、とても素晴らしい事だと思う。
人を好きになる事、人を尊敬し、慈しみ、大切に思うという行為は、とても美しく優しい感情だと思う。
恋人が欲しい、結婚がしたい。
人それぞれにそう思う理由があるだろう。
恋愛は当分いいや、と思うことにも理由がある。
必要ないかな、と思う自由もある。
ひねくれている自覚はあるので怒らないで欲しいのですが、親以外の、いや、親でさえ「結婚や恋愛を勧めてくる人」は総じて、本気で勧めるんじゃないと思っている。
その人たちが結婚という選択をしたことを、誰か他の人に同じ選択をしてもらう事で、自分は間違ってなかったと納得させたいんじゃないかな。
自分と同じ選択をした仲間を増やしたいだけなんだと思う。
「恋しよう!」と言われると、ようやく剥がした呪いをまた貼り付けられているような気分になる。別に今のままでいいのに「結婚をせっつかれる」というよりは、「結婚に焦らなくてはいけない」ということを強要されているようで、窮屈になる。
だいたい「恋しよう!」って言ってくる奴はなんなんだ?人を好きになるくらい一人でしろよ。
嫌な言い方だけど、先述した様な、誰かで自分というものを確立しようとしている人にとって、一人で人生を楽しく過ごす私の事が許せなかったが故の、冒頭の発言だったのだろう。
人と違うことをしている人を許せない人の心理は、自分の行動や選択を否定されたと勘違いするからなんじゃないかと思ってる。
繰り返すが、結婚しない。と決めたわけではない。
相手が見つからなかったらそれまでだし、見つかったらそれに越したことはないと思っている。
ただ、今は、今の生活を手離したくないのだ。
時間を気にせず湯船に浸かり、喉が渇いたら濡れた体のまま飲み物を取りに行ったり、芸人のYouTubeチャンネルを何時間もぶっ続けて見ながらこたつで寝落ちしたり、空が明るくなる頃まで起きて空が赤くなる頃まで寝たり、好きなアイドルグループのCDを全形態買ったり、休みの日だけのために何時間もかけてネイルアートしたり、シャウエッセンを加熱せずそのまま食べたり、昼ごはんは毎日マックだったり、気まぐれに筋トレしたり、弾けもしないギターを始めたり、こうやって誰も読まないnoteを書いたり。
だらしなく無益な生き方を手離したくないのだ。
幼い頃、父が夜通し車を走らせ初めて東京ディズニーランドに行った。
後部座席に横になり、等間隔で顔を照らす高速道路の道路照明灯。途中目を覚まして窓から見た大きなデコトラ。バックミラー越しに目が合う父。
私の大好きな記憶だ。
両親は本当によくどこへでも連れて行ってくれた。未だに三人で近県に出掛けるが、あの頃の様に車で遠くへは行けないだろう。
もう戻らない時間を、いつか誰かと作り出せたら、と思うから、結婚は未だに選択肢から消えてはいない。
美しい景色を羨望する自分はいるが、人との生活が美しいだけではない事を知っている。
今の私には、その生活が耐えられないことも。
強がりだと言われても、一人が好きなのだ。
強がりだと言いたい人の気持ちも分かるが、残念ながら、一人でいたいのだ。
一人でも、今のところ大丈夫なのだ。
これでいいのだ。
私の呪いを解いた言葉がある。
元彼と別れる寸前、ゼクシィを買った。
バリバリ結婚するつもりだったから。買ってみる?と言う話になり、向こうが買ってきてくれた。
結局その3ヶ月後くらいに別れたのだが、わたしは執念深く半年程度所持し続け、最終的に当てつけのように鍋敷きに使った。
それなのに、結婚に呪われ、結婚を渇望し、恨み、妬んだわたしを呪いを解いたのは、他でもない、そのゼクシィのCMだった。
「結婚しなくても幸せになれるこの時代に、
私は、あなたと結婚したいのです」
CMでその文言を目にした時に、泣いた。
まあその頃はいつでも泣いていたのだが。
元彼と付き合う前から結婚願望は無い方だったわたしが、元彼に対して願った事で、叶わなかった事だったから。
それと同時に、結婚情報誌が「結婚しなくても幸せになれる」と言い切ってくれたことに、救われたのだ。
私たちは、これからも「恋愛しなくては、結婚しなくては」という呪いに抗い続けなければいけないだろう。
結婚しないことを謗られ、恋人がいなくても平気と言えば、強がりwと嘲られる。本当に人を愛したことが無いんだよ。と言われたことすらある。一回私に愛されてみろよ。すげえぞ?ボケが
知らねえくせに。
そう、知らないのだ。
私のことを知らない人に、何を言われても、気にするだけ無駄。余計なお世話。私の人生の責任は私がとるしかないんだから、無責任な外野の発言なんて無価値。腹は立っても、落ち込む必要なんてない。
気を抜くと、誰かの何かでなければわたしは無価値。という地獄に落ちる。
どんな自分でも価値がある。生きていていい。と思い込む為に、無茶苦茶な生き方をしている気もする。
一種の病気だろう。
ただ、だいぶ気を張らず、のんびり生きれる様になってきたと思う。
人と一緒に生活して、虚無や絶望で何も楽しめなくなった頃を思うと、5億倍、一人の生活が私には合っている。
「結婚しなくても幸せ」という価値観は、今の私を支える軸になっている。その気持ちを大事にしていきたい。
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