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幸福王子

ROCK READING「幸福王子」を観劇しました。

今日で最後とも分からぬままに脳内ポイズンベリーが突然終わりを迎えてしまってからざっと7ヶ月ほどが経ったでしょうか。新型コロナウイルスの流行により現場が軒並み中止になり、時代の流れに押し流されるようにジャニーズにもついに配信のプラットフォームが染み付いてしまいました。コロナ禍に突入し公演再開の目処も立たないなかで、私のような怠惰な人間は配信やISLAND TVなら今でなくともそれこそいつでも観られるような気がしてしまって、段々と未視聴の動画が溜まっていくようになりジャニーズ関係で動かしていたSNSからも距離を置くようになりました。また、ちょうど時を同じくして自粛生活で時間がコンスタントに確保できるようになった事で、自分のやりたい事の勉強がより本格的に出来るようになったこともあり、少しずつ自分の中でジャニーズの比重が小さくなっていくのが分かりました。

そんな中での、幸福王子観劇でした。久しぶりの現場。7ヶ月ちょっとぶりの本髙くん。初主演で座長の本髙くん。この空白の7ヶ月間を完全にぽやぽや過ごしていた私とも時間を割いて会ってくれるオタクが居てくれたりして、つくづく周りに甘やかされながらオタクをやっているなと思ったり。本当にありがたい。Jr.のオタクをしていると半年も現場に行かないことなんて滅多にないので、ドキドキなのかワクワクなのか至って冷静なのかちょっぴり俯瞰的なのか、いろいろな気持ちが綯交ぜになったままの不思議な感覚で公演に臨みました。

まずマチソワと連続で観劇して真っ先に思ったのは、“私は1時間半の公演にチケット代を払っているのではなく、1時間半の公演が終了するまでの、物理的に現実から切り離された「時間」と「空間」にお金を払っていたのかもしれないな”ということでした。実際、1公演1,500円の配信を観るのを後回しにするような怠惰な人間が、往復の交通費に2万を費やし、さらには1公演9,000円の朗読劇を複数公演観たりするのです。

チケットを申し込んで、当落にドキドキして、やけに早い振り込みの締め日までに迅速にお金を振り込んで、青い封筒が来る日を今か今かと待って、なに着ていこうかなと服を選んだり買いに行ったりして、髪を切ったり染めたりトリートメントをしたりして、その日が来るのをワクワクして待って、劇場に足を運んで、オタクと会って、チケットをもぎって、席について、アナウンスが流れて、暗転して、公演が始まる。一つひとつは小さくとも、日常や現実から丁寧に丁寧に自分を引き剥がしてくれるこの行為を、コロナ禍以前の私はチケット代として買っていたのかなと久しぶりに現場に入ったことで思ったりしました。



さて、前置きが少し長くなってしまいましたが、ROCK READING「幸福王子」についてです。

※ここからはネタバレを含みますので、未観劇の方で今後観劇予定のある方はご注意ください。








朗読劇決定の知らせを耳にした時、役名だけ聞いて「本髙くんが王子を演じるんですか?!ぴったりじゃん!」とひどく舞い上がった記憶があります。だって本当にぴったりじゃないですか。デビュー組と並んでも、ディズニープリンスと並んでも、全く引けを取らないような端正な顔立ち。もう一目瞭然ですよ。私の感覚的には、本髙くんが王子役を演じるといわれたとき全くと言っていいほど違和感を感じなかったので、逆に本髙くんが自らを“俺に王子のイメージなんてないですよ”的な捉え方をしていたのには結構驚かされました。いやいやいやいやいや君、めちゃくちゃ王子よ、と。

しかしいざ観劇してみれば、ロックテイストにアレンジが加えられていることもあってか、お伽話のような王子様感はほぼほぼ無かったような気がします。ざっくりと言ってしまえば、お伽話とは正反対の日常のすぐ側にあるようなとても生々しいお話で、観劇した人間の善性や人間性に問いかけてくるようなとても考えさせられるお話でした。

正しさとは何か、善とは何か、自分を貫くとは何か、幸福とは何か。数えきれないほどの問いかけが常に突きつけられ、どんな選択するのかどのような答えを導くのかなど、あらゆる行為について考え、選び、葛藤しながらお話が進んでいきます。ツバメがツバメであるがゆえの純粋さや無知さを孕む率直で素直な疑問は、そのまま私たち人間の人間性を抉るような問いかけとなり、どこまでも人間というものを考えさせられる作品だなと感じました。

……バカか、お前らは!

この物語を観劇した受け手側を試すかのように、物語の始まりと終わりに配置されているこの台詞。
当然、物語の序盤とひと通り物語を見聞きした終盤ではこの言葉の重みが遥かに違ってきます。私たちにとっても、そして王子にとっても。ここで生じる受け手側の意味合いの変化こそが、終盤の独白のなかで眩い光を背負ったまま0番に立ち、この台詞を声の限りに叫ぶ王子のシーンをより鮮烈なものに昇華させているのだろうなと思いました。
これは不平等に幸福を与える神に投げかけた言葉なのか、卑しく軽薄な市長に投げかけた言葉なのか、人間だった頃の自分自身に投げかけた言葉なのか、いまの状況を疑うことなく生きている人間たちに投げかけた言葉なのか。はたまた、まさに今目の前で物語を見聞きしている私たちに投げかけた言葉なのか。



以下、あらすじです。

  町を見下ろす高台に王子の像が建っていた。目にはサファイア、剣のつかにはルビーが埋め込まれ、体は純金で覆われている。豪華で美しいその像を市民たちは誇りに思い「幸福な王子」と呼んでいた。
 建てられてから五百年、世の中を見つめてきた王子は争いの絶えない人間たちにうんざりし、不幸な日々を送る人々を悲しんで、世直しをしたいと願っていた。しかし王子は身動きができない。
 そんなある日、町にツバメが訪れる。ツバメは美しいバラに恋をして、暖かいエジブトに旅立つ仲間たちに置いていかれてしまい、単身エジプトに向かう途中だった。王子の足元をその晩の寝床に定めたツバメに、王子は頼みごとをする。1人で病気の息子を育てる貧しいお針子に、自分の剣のつかのルビーを取り出して届けてほしいというのだ。ツバメはエジプト行きが1日くらい遅くなっても問題ないと、その頼みを引き受けた。
 翌日王子はツバメに、貧乏な劇作家の若者に左目のサファイアを届けるよう頼み、その次の日にはマッチ売りの少女に右目のサファイアを持っていってもらう。ツバメはそのまま町にとどまり、両目を失って目の見えなくなった王子に人々の様子を話して聞かせ、王子は宝石だけでなく体を覆う黄金を剥がして貧しい人々にほどこすように頼んだ。
 やがて寒い冬が訪れる。王子は日ごとみすぼらしくなり、ツバメは寒さに凍えて弱っていき……。

王子とツバメの掛け合い、異色を放つ個性的なナレーター3人のテンポの良いストーリー展開の中で特に印象的だったのが、王子のゼロサム理論と「正しさ」についての王子とツバメの解釈のズレと王子の独白でした。

まずゼロサムとは、

ゼロサム
(英語表記)zero-sum
翻訳|zero-sum
デジタル大辞泉の解説
合計するとゼロになること。一方の利益が他方の損失になること。「ゼロサムゲーム」

という意味で一般的には知られています。日常生活のなかでは、あまり馴染みのないこの言葉を王子は中盤辺りから何度も何度も口にします。ツバメにこの世の理を説くように、あるいはその言葉を口にすることで自分自身を納得させるかのように、全てはゼロサムだ、と。このときの本髙くんの低く地を這うような声色と声量に圧倒されるとともに、全てはゼロサムに帰着するのだと高らかに歌い上げる王子の姿にどこか虚しさを感じずにはいられませんでした。正論がもつ歪さが滲み出しているかのような狂気的な本髙くんの台詞の言い回しが、より気持ち悪さを強調させていてとても良かったです。本髙くんすごい。

また、勝つ人は負ける人の何倍も勝つ、みんなが同じだけ勝つことは出来ない、誰かの成功は誰かの失敗だ、などといったゼロサム理論がストーリーが進むごとに展開されていきます。この辺りの、この世の理でも証明するかのように次々と王子の口からゼロサムが説かれていくシーンは、王子の容姿の美しさとその理路整然とした理論の美しさが重なって不思議と不気味な印象を受けました。

そのなかでも特に下記のツバメのセリフはかなり印象的でした。このセリフの後に王子がぽつりと呟くように「全てはゼロサム……」と言い放つシーンがあるのですが、この王子の提唱するゼロサム理論は決して机上の空論などではなく、実際にこの世に蔓延っている紛れもない事実で現実の話なのだと生々しく突きつけられたようで、とてもゾワっとしました。欠損を厭わず、自らが能う限りの施しを行っている王子だからこその重みを多分に含む恐ろしい問いかけです。

金で幸福が手に入るというのか?
王子は片目を失ったというのに……

正しさは必ずしもみんなにとって平等に正しく存在しているわけではなく、人間の数だけ正しさがあって、ひとりの人間にとっても正しさはその時々で常に変化するものだということ。その時々の人間一人ひとりに存在する真実が等しく正しく、そして間違っているのだということ。観劇中、様々な考えが浮かんでは消え、浮かんでは消えとぐるぐる頭の中を巡っていました。時に他人の持つ正しさは同じ人間である私たちでさえも理解し難いものがあって、人間の業の流れから外れているツバメならば尚更、人間の信念や矛盾や葛藤などの醜くも美しい心の働きは理解し難いものなのだろうなと思いました。


また、考えさせられるようなお話がそこかしこに散りばめられている王子とツバメの掛け合いですが、所々クスッと笑えるような可愛いやりとりもあってほっこりしました。

ツバメよツバメ、小さなツバメ。
“小さな”はいらない!
ハハッ、ごめん。

王子がツバメを「小さな」と形容するたびに、ぷんすこしながらご丁寧に訂正するツバメがめちゃくちゃ可愛かったです。そして訂正されても全然直そうとしない王子もめちゃくちゃ可愛かったです。この辺で急に可愛いの渋滞が起こっていて可愛いしほっこりするしで良かったなぁと思いました。そしてそして極め付けが、あまり悪いと思っていなさそうな王子の「ごめん」ですよ。これがまた世界一可愛い「ごめん」でもう、私は、わたしは……

あと王子とツバメの掛け合いで可愛いところといったら、宝石を取って持っていってくれとツバメに頼むシーン。王子がツバメに頼みを断られそうになると、だいたいツバメの話は最後まで聞かずに途中で遮るし、同情を誘うように事細かに人間の様子をツバメに語りかけるし、「でも…」と分かりやすく言い淀んでみせてツバメに助けるよう促すし…と、王子の頼み込みスキルがあまりにも高すぎて、やり取りを交わしているうちに気づいたら結局折れているツバメがとても可愛いです。根が優しいから、結構チョロいツバメくん。

「足が台座に固定されていて動けない」だろ?


さらに、先程台詞の話のなかでも少しだけ触れましたが、ストーリーの顛末を説明する語り部的な役割として序盤と終盤に組み込まれていた王子の独白シーンもかなり印象的でした。あのシーンのなかで市長と神様の声のトーンが合わせられていたのは恐らく意図的ですよね。

人間にとっては対照的にみえるような存在が、同じトーンで語られていくことの気持ち悪さ。神と人間。絶対的な権力を持つものと一時の借り物の権力をもつもの。平等に不平等を与えるものと不平等に平等を与えるもの。善と悪。尊いものと卑しいもの。相反する存在や事象を並べて同じトーンにまとめることで、これらは常に表裏一体でそこに絶対的な差異はないのだと、それこそこれがゼロサムなのだと、王子の声のトーンが表しているようでした。
監督さんか演出さんかどなたか大人からそういうオーダーが出ていたのだと思いますが、これに気づいたとき、ちょっと本当に今まで応援してきた本髙くんと実際に今目の前で見ている本髙くんは全くの別人なのではないかとさえ思ってしまいました。表現の面に置いて私が知ってる本髙くんと目の前の王子役を務める本髙くんとの乖離がとてもじゃないほど大きくて、心の底からすごいなぁと感心すると同時にかなり衝撃を受けました。

アイドルだって人間なのでファンの目が届かない時間の方が断然多いと頭で分かっていても、やっぱり何年か応援しているとどこか分かった気になってしまう部分も割とあって、私の知らない本髙くんがまだまだたくさんいるんだなという新発見に素直に驚くのと同時に、本髙くんってこんなことも出来たんですか…?という良い意味での裏切りにあった感覚もしました。

(ソロなんて今までほとんど歌ってこなかったのに堂々と歌い上げるし、演じる人物に合わせて声のトーンもボリュームもめっちゃ自由自在に使い分けるもん。そんなんできひんやん普通、そんなんできる?言っといてや、できるんやったら……)などと、心の中で「本髙くん、半端ないって…」とため息まじりに突っ込んでしまうくらいには、本髙くんの演じっぷりに驚きました。でもさ、さすがに今回のは言っといてや!出来るんやったら!の極みすぎるよ、本髙くん。完全に知らない人だったよ。すごいよ。君、そんなすごかったんかいな。


と、最後は安定してモンペに帰着してしまいましたが、幸福王子で王子役を演じる本髙くんを観られて良かったです。

幸福王子は内容的にどこかとても遠くの国のお話にみえて、実際はかなり身近で生々しい現実的なお話の上、受け手側も考えさせられることが多い作品でした。しかもこの作品が投げかける問いは、それぞれにそれぞれの正解があるような絶対的な答えのない問いばかり。だからこそ、演じる側はさらに多くの疑問や葛藤があるだろうし、様々な正解に寄り添って演じなくてはいけない難しさがあると思います。
初主演作かつ初めての朗読劇で、この題材はかなり難しいものだったと思うのですが、このコロナ禍という状況のなかで、人間の幸福を問う幸福王子という作品と向き合うことは、本髙くんにとってかなり大きな糧になるような経験になったのではないかなと思いました。京都公演も楽しみにしています。




おわり



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