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アレックス・デラージ『時計じかけのオレンジ』より

さあ来た。暴力を扱う映画において、定番中の定番、古典の中の古典だ。そして、これを作ったのはキューブリックだ。悪役というか、アレックスの置かれた状況は、悪役を考える上で一つの柱になる。見るべきものが、そこにはある。

アレックスのする事は、すべてありふれている行為。いわば俗悪だ。特別な計画も思想もない。欲望の起こるままに、発散し続ける。そして青年期。人格が完成される前の悪役2人目。

この作品は、あらすじと考察を同時にやっていこう。

暗い街へ繰り出し、ホームレスを暴行し始める。老人を嘲り、散々痛めつける。廃墟の劇場では、ミリタリー風?レジスタンス風?の別グループと喧嘩をする。暴力から暴力へ。暴力で得たアドレナリンを、次の暴力へ繋げていく。破滅のわらしべ長者だ。そしてその日の最後に、押し入った作家の家で、妻を輪姦する。めくるめく暴力の旅。

「ノズでしょうぶするか?」

ミルクバーで仲間による第九を歌う婦人への無礼を咎め、アレックスはそう尋ねる。喧嘩に自信を持っているし、チームのルールは、アレックスが作っているらしいことが分かる。

そして帰路につくアレックス。住んでいると思しきマンションのエントランスは、荒れに荒れている。と言うかその道中も、内戦の只中にあるみたいだ。ミリタリー軍団と戦った劇場も死ぬほど荒れていたし、の割に、それぞれの家の中、そしてグループ自体は、徹底的に趣向に凝った作りをしている。それぞれがそれぞれの群れに引きこもっている印象だ。

「申し分ない家と親があり頭も悪くないのに、悪魔が体をはい回るのか」

サプライズ訪問の教師はそう吐き捨てる。家(国家)と親(教師をはじめ手本となる人物)は、申し分ないとは言えないな。教師は訝しみながら憤る。我々は国を正しく統制しているのに、なぜ、逆らうものが出て来るのか。

レコード店でガールズハントを始めるアレックス。第九、封建貴族の様な格好。かつてのレトロフューチャーってところか。受ける印象は、放蕩だな。

横暴が続いた末求心力を失い、仲間の造反を招く。アレックスはここで既に、暴力の結末を予告編でチラ見してた。さあ、ここで取る対策は、またしても暴力だ。離反する仲間たちへの説得を、いつも持ち歩いている謎の棒の硬さに委ねる。仲間をボコって脅して万事元通り。

数いる悪役の中で、アレックスの特徴はなんだろうな。人生経験に乏しい(主要なトラウマも理念もない)事、常に気軽(シリアスなものが何一つ無い)な事。

ともかく悪役としてはピュアだという事だ。何もかもを軽んじている事。行動規範は、ただ易きに流れるのみ。

そして性モチーフの芸術品まみれのヘルスファームなる屋敷へ強盗に入り、婦人を撲殺するアレックス。仲間の裏切りで逃げ遅れ、夫人の通報で到着した警官に捕まる。

取り調べを経て裁判にかけられ、14年の懲役を宣告される。収容手続きで手も無く持ち物と服を剥ぎ取られ、気を付けを強要される。少なくとも映画内では、初めてアレックスが規則に縛られ、命令を聞く場面だ。彼は放蕩を終えた。

そして、「ルドヴィコ療法」だ。薬によって暴力的状況と苦痛を結びつけ、暴力衝動が起これば死にかけるほどの吐き気を起こす様になる。その被検体になり人工善となることで、自由の身になる。

そして始まる贖罪編。意気揚々と帰宅した自宅には、自分の代わりの息子が住んでいた。強盗、強姦、殺人、リンチ。やってきた事の重みを思い知る。家を出て小銭をせがんできたホームレスが、かつて襲った男であることが分かる。ホームレスのリンチを受けていると、警察官が寄って来た。その警察官は、かつての放蕩仲間だった。引き続き受ける贖罪の行脚。

かつての暴力という解決手段を持たない。暴力衝動と戦うのは、薬で植え付けた暴力嫌悪。アレックスを代理して暴力嫌悪が戦う。アレックスは決着を見届けるのみ。吐き気に耐えられず、暴力を断念する。アレックスは然るべき戦いから、審判の位置まで弾き出された。

作家には、策略があった。アレックスという反証を利用した科学主義、全体主義的政策を掲げる政権の打倒。そこで、あの歌だ。"雨に唄えば"「超暴力」を炸裂させていた時に歌っていたもの。正体が作家にバレる。作家役の顔芸がすごい。

アレックス、そしてそれを生み出した社会。あらゆる暴力への復讐を果たそうとする。

「突然すべてはっきりビディー(見える)してきた 何を心から望んだいたか やりたかったか… ぶっ裂こう 邪悪で残酷なこの世界から飛び出そう」

アレックスが第九の苦痛に耐えられず、第九へ苦悩する苦痛に耐えられず、窓から身を投げる直前独白したこの言葉。これは真実の様に思う。自殺願望は「治療」の副産物ではなく、彼が元々持っていたもの。彼の人生自体が身投げの様なものだ。

同じ病室で、医者と看護師がイン・アウトしている中、彼は目を覚ます。象徴的だ。"ぶっ裂こう"とした己に場所に、舞い戻ってきた。

決死の身投げから生還したアレックスは、「治療」から復帰し始めた。

彼は、長い長い墜落の中にあった。いつか着く、全てを"ぶっ裂く"地面への直撃を求めて。

遂に到着した固い地面は、コピーされたコマの様に何一つ変えなかった。彼の中で溢れかえった無力感を除いて。

「お前には家がある。いつでも戻っておいで」

プロパガンダも新聞も鵜呑みにし、柔和さだけを取り柄に世渡りしてきた父親の矮小な魂を見て、むしろ暗黒の巨躯を確信する。ああ、すべては暗黒に抱かれている。

それは彼を遂に降参させた。暗黒の世界へと振る純白の旗。より深く、ディストピアに順応し、進化していく。風に捕まった雛は、暗黒世界の、暗黒の空を飛ぶ為に、暗黒の翼を生やそうときめた。「ミルク」を飲むのをやめ、「エッギィウィッグ(卵)」を食べる彼の顔に雛の面影はない。

映画のラストは大臣とアレックスの撮影で終わる。

大臣からステーキ(食物)を食べさせられながら、恩赦(過去からの解放)を受けながら、職(居場所)を斡旋されながら、暗黒世界へのより深い適応と登録を促される。

墜落を諦め、晴れて暗黒の世界へ飛び立ったアレックス。

「完璧に治ったね。」

さようなら、理想の世界。そういうことだ。

ディストピアを拒否する雛の墜落と、ディストピアを承服する成鳥の飛翔。そういう物語だと思った。

こう考えるなら、アレックスの放蕩は、ある種の抵抗なんだろう。何一つ信用できない中で、唯一信頼できたのが、自分の中にある野蛮な欲望。これだけが、時計じかけ(作りもの)ではない。

先人が作った社会に抵抗する為に、取ることのできた手段が、暴力と放蕩という死への加速だけだった。前半を見る限り、喧嘩も強いんだろう。
そして自由を人質に受けた、「ルドヴィコ療法」。

力を押さえつける更なる剛力。

自分を負傷させた社会の拳を信じ、それに倣って拳を握ったことに、彼の不幸はあるわけだ。血走る社会の腕は黒い風を裂き、浮遊する彼を鷲掴みにした。

思い返されるのは、婉曲な勘当を受けた場面だ。途方に暮れて、川の前で泣いているアレックス。暴力とセックス。その自己表現さえ奪われてしまった以上、もはや彼は死骸のように虚無の中央を歩き回るしか無い。

喧嘩が弱ければ、アレックスはどうなっていただろうと思う。譜面と旋律を愛し、暴力以外に暗黒を拒否する術を持っていたなら。

恐れたものは、己を失い時計じかけになること。そしてディストピアの一部になること。弱点は、これを悲劇と見るか喜劇と見るかによって違う。

原作では、アレックスは成長し、子を持つことを検討するらしい。そして、10代の出来事を「若気の至り」として振り返るらしい。抵抗していた時代を、黒い翼をはためかせてそう懐かしむ。

お前の背には、何色の翼が生えている?

キューブリックにそう言われている様な気がした。

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