残雪
忙しなく動く街並みを見下ろして、だだっ広い屋上で、1人白煙をこぼす。飄々と流れるタバコの煙。頭を垂れて手すりに寄りかかった。
上京して3年の月日が流れた。目まぐるしくすぎる日々に引きずられて、あれよあれよとハタチになった。屈託のない笑顔を煌めかせていたあの頃はもうなくて。大人になった振りをして、笑うことも忘れていた。
街に残る残雪は、残り少ない。僕の心も、あと幾ばく。残雪なのだろうなど、バカバカしい傷心じみたことを考えていた。
あぁ。あの約束は覚えていてくれているだろうか。突拍子もなく、そんなことが頭をよぎる。そういえば、あの日もこんな街並みだったなと、故郷の記憶が蘇る。
あれは、こんな雪解けを待つ春先の日の出来事だった。
僕は高校を卒業して、故郷を離れて就職することになっていた。引越しの前日。友との別れをかみ締めて、使い古したダンボールに思い出を詰めていた。期待と不安、悲しみが混合した藍色の心は、織り交ざり、ため息にも似た吐息に変わった。
準備もそこそこに、下から、母が僕を呼ぶ声がする。なんでも、梓(あずさ)が来たのだとか。
望月 梓(もちづき あずさ)。2つ下の後輩であり、ご近所さんというか、腐れ縁というか、幼なじみのような女の子だ。 なんだかんだと、幼稚園、小学校、中学校、高校と、共に歩んできたのだが。梓が中学校に入った頃から、パタリと喋らなくなった。
原因は何となくわかる。お互いに、妙な壁を感じていた事だ。いや、感じていたというより作っていたが正しいのだろう。僕は男になっていって、梓は女になっていった。その摩擦が、嫌いだったのかもしれない。
だが、今になって。しかも引越しの直前に、なぜ会いに来たのだろうか。思い当たる節は無い。僕は、すこし頭を傾げながら階段をかけ降りた。
開いた玄関の先には、凛と、梓が立っていた。綿雪のような肌に、肩で揃えられた黒髪。学校帰りなのだろうか、ピシッと制服を着ていた。
四年ぶりの再開。
けわしい表情の彼女に、僕は少し声を詰まらせながら、「や、やぁ。」と声を出した。ぎこちなくて、なんとも不細工な挨拶だ。
切り出し方がわからない。会話の糸口は見つからず、ただ時間だけが流れていった。
そんな僕に痺れを切らしたのか、梓は
「ちょっと今から出れる?」
と口火を切った。
ツカツカと歩く彼女の後ろをついて行くと、ほどなくして見覚えのある小さな公園に着いた。
「……ここのゾウでさ。よく遊んだの覚えてる?」
こちらを振り向かずに、梓はそう言った。
「…覚えてる。下に潜ってアリジゴクにダンゴムシ入れてた。」
「ふふっ…正解。」
彼女は、少し笑って振り返った。その顔は、微笑みながらも、少し寂しそうで。滲んだ瞳は、キラキラと光っていた。
「いつ行くの?」
「……あした。」
「そっか。……お兄(おにい)はいつも先に行っちゃうね。」
「………」
「だから、待ってて。追いかけるから。」
赤らめる頬を涙が伝って、微笑みながらも静かに、そして力強く言う彼女は、まるで雨露に濡れる蓮の花のようで。まるで一面に咲いた彼岸花のようで。
僕は、彼女の美しさに言葉が出なかった。
言葉が出ない僕を置いて、彼女は「じゃあね」、と言って走り去った。さよならとは、決して言わなかった。
それから3年の月日が流れて、現在に至るわけだが、彼女の到着はまだだ。もうあんなこと、忘れたのだろうと思っているけど、忘れきれない自分がいて。残雪をみる度に思い出してしまう。
ほどなくして仕事に戻った僕は、特に何かあったわけでもなく、残業を1時間ばかりして帰路へついた。
帰り道、自宅まであと5分のところで、ひと足早い桜が咲いていることに気づいて、近くの公園へと足を運んだ。途中コンビニで買ったビールを開けて、公園のベンチで流し込む。
満開の夜桜は、外灯に照らされて花を散らす。夜の花見も悪くないかな、と浸っていると、後ろから声をかけられた。
「こんばんは。桜、綺麗ですね。」
「そうですね。見蕩れます。」
「近所の方ですか?」
「えぇ、まぁそうですね。仕事終わりに寄ったもので。あなたは?」
「私は、ちょっと野暮用のようなもので、人を探しているんです。」
そうですかと振り向くと、そこには、あの日の花が笑っていた。
「お待たせ、お兄。」
僕の残雪も溶け落ちて、僕らに3年越しの春が来た。
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