日記堂の告白 中編その2
その日は、何やら月がとても綺麗な日だったようで(たしか、ストロベリームーンだとかそんな名前でした)それなら二人で見に行こうという話になりました。
私はせっかくなら静かでよく見える場所でと思いましたから、彼の手を引いて、私の学校の裏山にある小さな湖へ連れていきました。
予想通りというか、誰もいない湖には真っ赤に輝く月だけが大きく輝いて、手を伸ばせば届きそうな程近くに静かに浮かんでいました。
「キレイだね」なんて私が言って、彼が静かに頷いて、それからしばらくボーッと二人並んで月を見上げていると、なんだか二人だけの世界のように感じて、このまま夜が明けなければいいのに、、と思っていました。
「死ぬにはいい日だね」
不意に彼はそんなことを言いました。冗談でも死ぬなどとは口にしなかった彼が、確かにそう言ったのです。私がハッと彼の方を振り向くと私の知らない彼がそこにいました。いや、本当は最初から勘づいてはいたのかも知れませんね。
見上げた彼の顔からはどうしようもないほどに死の香りがして、そうして嗅ぎなれたその匂いが私の胸をざわつかせました。
「ねぇ、どうしたの?」
「いや、やっと見つけたなって、死に場所を。」
少し笑って、そして彼はこう続けました。
「俺の産みの親。両親。俺を産んだ後にすぐ居なくなったんだ。どこかに消えたとかじゃなくて、死んだんだってさ、理由なんかは知らないけど。。それからしばらくして、十歳くらいの頃だったかな、俺を養子にしたいって中年間近の夫婦がいた。医者だったよ。ホイホイとついて行った俺もバカだけれど、初めて見つけてくれた気がして嬉しかったんだ。でも、そいつらの愛情は無償ではなく有償だったことに気づくのにそれほど時間はかからなかったよ。」
そう言って彼はシャツを脱ぎ捨て、その華奢な上半身を私にみせました。月明かりに照らされたその体は、首から下胸部の辺りから背中にかけて、惨い蚯蚓脹れ(みみずばれ)のような傷跡がびっしりとついていました。
「自分の病院を継がせたかったんだって。だけれどあの人達子供が出来なかったんだってさ。つまり俺はその替え玉ってわけ。出来が悪いと散々ぶたれたよ。この傷跡はその累積。笑っちゃうよね。」
徐々に掠れるような悲鳴を上げる彼は、より一層死の香りを漂わせて口をクシャッと噛んで涙を流しました。私はかける言葉が見つかりませんでした。喉に詰まった言葉はひとつも出ることが出来ず、ただ虫の音だけが静かに二人の空白を埋めているだけでした。
そうしてどれくらい経ったでしょう。もしかするとほんの数十秒くらいだったかもしれません。その長い長い一瞬の後、彼はまたいつもの顔で、またゆっくりと口を開きました。
「俺はね、死に場所を探してたんだ。もう無理なんだ。切り崩した心の対価も払い尽くしたんだよ。そうして今、やっと見つけたんだ、最後にしたいと思える場所を。」
「でもね、勘違いしないで欲しい。俺は君とあの本屋で出会って、今の今まで本当に楽しかったんだ。君となら生きてもいいのかなと思えるほどに、俺は救われていたんだよ。」
頭より体が動きました。気がつくと私の腕は彼の体を抱きしめていました。彼の傷だらけの体に顔を埋めると弱々しい体温が私の頬に伝わって、みっともないくらいボロボロと大泣きしました。我慢できなかったのです。
前々から気づいていました。
私の生き甲斐が彼との生活だったということを。
私が彼を好きだったこと。
私は涙を飲みながら、むせるように声を出しました。それは私の全身全霊、最後の願いでした。
「私も一緒に連れて行って。」
きっと世論は、もしかするとあなたも、そんな簡単に命を絶つなんてと考えるのでしょう。彼を弱い人間だと批難するのかもしれません。そうして図々しくも「生きろ」と、「頑張れ」と、そう言うのでしょう。私もそう言うのが正しかったのかも知れません。本当は彼と見たかった未来が他にあったのかもしれません。それでも、私は口が裂けてでも「一緒に頑張ろう」だなんて言えませんでした。わかったつもりであったとしても、私達はただ親無き悲しい子であったのです。
そうして弱い私達は月夜の畔で心中を誓いました。
それからの事はあなたも知っているとは思いますが、彼と私は全てにお別れする準備をしました。親しかった人、住んでいるアパート、冷蔵庫の中身、秋に着るはずだったトレンチコート、全てにお別れをしました。そうして1ヶ月後、準備を終えた私達は満月の湖に身を投げました。光り輝く水面が遠のく中、私は彼の抱擁にそっと身を寄せて眠るように目を瞑りました。
薄れゆく意識の中、やっと終わったと思いました。
そう思いたかった。