まるいオーラの気のレッスン《その9》
気のエネルギーは身体の「中心」に集めます
人の身体の成り立ちは、前半身と後ろ半身の「2枚の半身づつ」が合わさって出来ているとイメージしてみましょう。前後の2枚合わせですよ。人の身体はどら焼きやサンドウィッチと同じ作りなのです。
気のエネルギーは、この2枚の半身の「間」に集めてはさんでおくのです。どら焼きのアンのように。ハムサンドのハムのように。
この2枚の身体の「間」には《その5》に書きました「地球一周のピアス」が通ってはさまるようにもなっています。
前半身と後ろ半身の「間」のあたりには「中心部」があります。中心部というのでは、まだ本当の「中心」ではなく、本当の中心は「一点」なのです。中心部の形は「ほぼ球体」です。
気のエネルギーの「気」は「無限に微細な一点」です。ですから、気のエネルギーが集まって来るところも「一点」の方が集中が出来ます。
一点よりも球体の方が体積が大きいからいいのでは?と思う方もいると思いますが、しかし「意識を集める」ことで気のエネルギーを集めて来るわけですので、球体よりも一点の方が無限によろしいわけなのです。
「点」にはふたつの種類があります。ひとつは単に位置を示すだけの点。ここには広さや厚みもなく、次元の無いただの点です。ですから単独で「点」としては存在出来ない次元の点です。
もうひとつの「点」は、それは無限小の点です。ブラックホールのように無限に集約していって、外の、線・面・立体・空間・時間や光や、もっと上位の次元すらも閉じ込めてしまうという意味の「点」です。
このような点ならば、意識を無限に集め続けても「集中力が止まる」ということはありません。ずーーっと無限に集中をし続けられる「点」です。
それは、点の中に無限の空間があって、この大宇宙すらもこの一点に集約してしまえるというような「超・一点」なのです。
身体の中心は無限の一点です
気のエネルギーの「気」は、極微小の点ではありますが、集まってゆくことで「おにぎり」のように体積が増えていってしまうという「点」ではありません。無限に集め続けていっても、ずーーっと「点」なのです。
それは「点」の中に無限空間が閉じ込めれたといえばよろしいでしょうか。線は一次元で面は二次元です。本来「点」には次元というものは与えられてはいないのですが、この場合は、無限次元の点というしか言いようのない不思議な「点」なのです。
さて、そんな「点」は、一体この世のどこにあるのか?といいますと、人の意識の中にあります。人の意識が作り出した次元の「点」です。気のエネルギーの「気」は、この「一点」に集めるということになっているのです。
この「一点」は、前半身と後ろ半身の「間」の中にあります。
この「2枚の半身」の「間」の中心と「まるいオーラ」の中心とは、同心円で重なることになっています。
不老不死の中心の一点?
中国の道教の仙人仙女が不老不死の身体を求めておこなう『胎息』は、この中心の一点に集まるような呼吸なのでしょう。
「自分の身体の中心」は、ごく自然に「地球一周の中心」と合一となりますから、すでにそのままで不老不死の身体となっているのかもしれません。
不老不死の身体とはきっと、この世に生きたまま「死なないカラダ」という意味だけではないのだと思います。
きっと、地球一周とひとつ・太陽系とひとつ・宇宙とひとつ、となった身体のことではないか?と想像できます。
人の身体の存在風景を、中国独特な大げさな言い方で「不老不死」と言っているのでしょう。この世で生きたまま死んで、そのままあの世で生きて、肉体は消滅しても精神と意識はずっと宇宙とひとつという《道 TAO》の世界の表現なのだと思います。
自分の「中心」こそが自分のガイド役
もしかして、生きたまま肉体のカラダから抜け出て、あの世でも生きるための下準備などの計画なんかも、仙人仙女の修行の中にプログラムとしてあるのかもしれません。
「気」で作り上げた「もうひとつのカラダ」は、とっても自由なカラダなのでしょうから、肉体というフレームが有っても無くても、自由に出入り・抜け出たり戻ったり、なんていうトレーニングもあるのではないか?と、中国道教の本などをながめていると想像してしまうのです。
しかしそのようなトレーニングを積んだとしても、結局は「個人の実力」ですから、中国の道教でも、チベットの密教でも、インドのヨガでも、やはり個人の能力と宇宙の意識の同調によって、いろいろな能力が開いてゆくものなのです。
師匠から正当に教わったり学んだりしていなくても「いろいろなことが出来る弟子」は存在いたします。
それは、ある種の基本トレーニングメソッドをおこなっているうちに内側から目覚めた「中心」が自分のガイドとなるのではないかと思います。
自分の内側に存在している「中心の一点」こそが自分を導いてくれる真の師匠となるのが一番ではないか?と感じるのです。
そもそも人間の師匠など、どこまで本当のことを教えてくれるのかどうかだってわかりません。そのあたりは未知であり不明であります。
学んで教わっても出来ない人もいれば、学ばずに教わらずに出来る人もいます。そういう人はいったい誰から学んでいるのでしょうね?
それよりも、自分の中の「中心」を、自分をガイドしてくれる役割として感じられてゆけることが一番なのではないでしょうか。
どんな世界でも、ある程度のレベルになってしまうと、やがては孤独な自分になりますし、そうなった時点で、もう他人の存在などアテに出来ないものです。
「まるいオーラ」は「自分の中心の一点」にまでたどり着けるための「ガイドの役目」をしてくれます。
この中心とは、自分の身体が持っているはずの「中心」なのに、なぜか自分の意志だけで自分の身体の「中心」に、そう簡単にたどり着けない秘境なのです。
自分の身体の内側にあるものだから、距離的はとっても近いのですが、なぜか一番遠いところなのかもしれません。だからこの場所を「内宇宙の一点」などと呼んでいるのかもしれません。
みんなで「中心」を共有する感覚で
えーと、今回のこのページでは、かなり難解なことを書いてしまいました。
みなさん各自でトレーニングをして「中心」を目覚めさせて「悟り」を開いてくださいねみたいなことを書いてしまいましたが、そんなむずかしいことをやってくださいという思いではありません。
実はこの「中心」というのは、ひとりひとりで各自にトレーニングなどしなくても、同じ空間にいれば「同調」して「共有」できるものなのです。
もちろん「気を感じる」ことが出来る人どうしであることは条件です。
それでも「ある程度気を感じる」ことさえ出来れば、この「中心」というのも「情報データ」ですので、同じ空間にいる人の中で誰かが「中心」を持っていれば、それは伝搬するのです。
リラックスして同じ空間にいるだけで「中心の一点」の周波数が波動として広がって伝わり合うというシステム性があります。
「中心」というのは「個人のもの」でありつつも、同時に「みんなのもの」にもなるのです。粒子でありながら波でもあります。
このあたりがやっぱり「内宇宙としての一点」なのです。
同じ空間にいながら言葉での説明は使わず、波動で伝わって共有してゆけることがいいのだと思います。それは伝える方にも、伝えられる方にとってもです。
太陽からの光を感じるのも、風を感じるのも、オーラや「気」を感じるのもどこか同じようなものです。
『まるいオーラの気のレッスン』の説明は、だいたいのところは書き終わりました。これでほとんど終わりです。さらに追加で記事を書く必要がありましたら、その時にページを追加してゆきたいと思っております。
こちらのnoteに書きました『まるいオーラの気のレッスン』の記事は、すでにこのレッスンをされている人に向けて書いています。
このページは案内書ではなくテキストなのです。
ほとんどが個人レッスン風におこなっておりまして、どこかに教室などを開いているわけではありません。しかし、もし一般的なオープンクラスを開くことがあるかもしれません。
いつかご縁があって、いっしょに楽しく『まるいオーラ』のレッスンが出来る日が来ることを願っております。
あ り が と う ご ざ い ま し た ~*
本日も とてもよくできました!
また次回も お楽しみに!