人生50年時代から離れられない自分
私は1985年にいまの会社に入社し、いまだにその会社にいる。いろいろな「メディア」を持っている会社だ。
なぜ、そんなに長く、いまの会社にいるのかと聞かれれば、ずっと、自己表現を最大限許してくれる会社だったからだ。
定年後再雇用で週3日働いている。残りの4日間、何をしてもよさそうなものだが、残りの4日間も「会社の看板」は背負っている。会社から言わせると「会社の名刺を使っている」から、いまは100%自由な執筆活動は我慢してもらいたい、ということのようだ。だから、人に会って、面白い話を聞いたとしても、それをいま、自由にnoteに書くことはできない。君のものではないのだよ。会社のものなのだよ、と言われてしまう。
そんな制約があって、純粋な個人としての行動や発言が制約された面はあったとしても、「会社員である時間」に許されてきた「表現の自由」は魅力だった。
企業などの仕事を個人が請け負う「クラウドソーシング」の世界では「ライター」というジャンルの仕事があるが、とても不自由であると感じる。例えば化粧品メーカーが自分のホームページに書く文章をクラウドソーシングのライターに頼むとする。自由に文章が書けるだろうか。
「ジャーナリスト」という言葉がある。「ライター」との違いがあるとすれば、「自己表現」の部分かもしれない。事実を明らかにするために、事実の近くにいる多くの人たちから取材し、「客観的な事実」をまとめようと努力する。でも、それを取材する動機は極めて主観的なものだ。「こんなおかしことがあっていいのか」「事実が伝わっていない。事実を明らかにしなければ」「知らなかった。この世界はこんなに面白いんだ」ーー憤り、驚き、好奇心。動機は様々だが、事実にアクセスしたいという気持ちが生じ、会社に「企画案」を出してOKが出れば取材ができた(すでに書き尽くされている、テーマが生煮え、読者の関心を引きそうにもないといった理由で取材が認められないことはあるが、「面白い」話はほぼ100%取材ができた)。記事にするときは会社による何段階ものチェックが入って世に出るが、事実をねじ曲げられることはなく、より読者に伝わる、読みやすい形になることの方が多かった(尖った記事が平らにされると感じることは多かったが、それにより客観性が担保されたのだと思う)。
クラウドソーシングの仕事でも、ある程度、自由はあるのかもしれないが、受けるときっとストレスがたまる。だから「収入ゼロ」でも、自由に書けるnoteを選んだ。組織と繋がって書く場合、いまの会社以上に自由な表現を許してくれる組織はあまりないと思っている。
とはいえ。
一つの会社で40年以上も働き、ほかの仕事の経験がないというのは、まさに人生50年時代の生き方だ。人生100年時代の生き方に憧れる。
でも、人生100年時代の生き方は必ずしも明瞭ではない。多様な趣味を持てば、「人生100年時代」的なのか。ワークライフバランスをしっかり考えてくれる会社に勤め、自分の時間が十分にとれれば、「人生100年時代」的なのか。「人生100年時代の生き方」に少し近づく感じはあるが、まだまだ、という気がする。
人生50年時代と変わらない人生を歩んできた私が「人生100年時代」を語る資格があるかどうか、という問題もある。でも、「語れない」かもしれないが「研究」はできる。
人生50年時代の生き方をしてきて、いまだそこから離れていない私だが、チャンスもある。65歳以降の人生を、人生50年時代とは違ったものにすることで。さあ、どんな形で一歩を踏み出そう?