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崖と利き腕

 郷里の町には大きな公団があった。公団の端に隣接して、公民館と駐車場があった。公団は丘の上で、駐車場に面した所は剥き出しの崖になっていた。崖は数メートルで、六十度ぐらいの傾斜になっていたと思う。崖の上はなだらかな斜面で、木が生い茂っている。丘の一部を削って駐車場を造ったらしかった。

 この崖を、ある時福田と登った。どこかで遊んだ帰りだったように思うが、全体どうしてそんなところを登り始めたものかはもう判然しない。当時自分は小四で、それまで危ないからと禁じられていた遊びをやり始めた時期だったように思う。福田は自分の友だちの中では随分やんちゃ坊主な方だったから、彼の影響もあったろう。
 福田が先に登り始め、自分がそれに続いて登り出した。最初は余裕だったけれど、真中辺りまで行ったところで不意にバランスが崩れた。何だか後ろへ引かれるような心持ちがして、「あ」と思ったら本当に後ろに倒れ、下まで滑り落ちた。
 何がどうなったのかわからなかったが、頭の側から滑り落ちたのには違いない。頭から落ちたのでは大変だ。実際、打ったのではないから頭は何ともない。ただ大変だと思うばかりで「痛い痛い」と転げ回った。
 どこが痛かったのかはわからない。痛くなかったようにも思う。
「大丈夫か!」
 福田が滑り降りて来た。
 自分はやっぱり「痛い痛い」と転げ回ったが、じきに別段痛くないと気が付いて、すっと起き上がった。だからやっぱり最初から痛くはなかったのだろうと思う。ただ、何だか左手に違和感があった。
「手が痛いん?」
「わからん」
「手首の体操、いっちにっさんしっ」と、福田が手首を回して見せ、それを一緒にやろうとしたら、反らす動きができなかった。
「動かん」
「まじ?」
「折れたんかな?」
「折れたら凄い痛いで」
 少し前に福田は足を折って入院している。
「じゃぁ、折れとらんのじゃろ」
「まぁ、帰ろうか」
「うん」

 翌日外科医へ行ったら、まんまと折れていた。
「落ちた時にこうやって手をついたんじゃろ?」と医師が言ったけれど、どうやってついたかなんて覚えていない。手をついたことすら知らない。
「覚えてません」と言ったら、医師はうんと頷いた。
 すぐにギブスで肘から下をぐるぐる巻にされて家に帰った。
 元来左利きだから暫く大変だった。食事はフォークとスプーンで大丈夫だったけれど、学校でノートを取るのに苦労をした。そのうち右手で字を書くのにも段々慣れた頃にギブスが外れたので、また左手を使い始めた。
 それで自分は大人になるまで左利きのままだった。

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百裕(ひゃく・ひろし)
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