吃音症、なんとか頑張るか!



31歳、社会人7年目、物心ついたときから吃音症持ち。
吃音症と認識した4歳の頃、辛くて辛くて仕方がなかった8歳、
どうにか戦っていこうと決めた13歳、人前で話せるようになった27歳、
31歳の今これを盛大な自分語りをしていく。


現在、吃音症に苦しむ人、周りに吃音症の方がいる人、吃音症を知らない人に吃音症の一つのサンプルとして読んでいただければと。


1.吃音症と認識した4歳の頃

「Aくんは話せてるのに自分は話せない。」
「話しかけられても、話したいことがあっても話せない。」

そう認識した強い記憶がある。
多くの人は、何か新しいものを「覚える」⇨「使ってみる」⇨それを繰り返していく・・・という行為が楽しさに繋がり、モチベーションを高め、
もっと新しいことを覚えていく。
4歳の頃となると、「言葉を覚える」ことが体を動かすことと同じくらい
大切で刺激に溢れ楽しいことだったと思う。

ところが、吃音に”なる”と、はじめの1音が出てこない、1音目がでても2つ目が出てこない、2音目が障害となって1音目が出せないなど声を発する事ができないシーンは多くある。
「覚える」はクリアできても「使ってみる」がクリアできない。
これではモチベーション向上に繋がるわけがない。
そして声に出して喋るというのは1人では完結しない、対人となる。
人とコミュニケーション取るにあたって、一番容易な喋るという行為、これが成功しない。
コミュニケーションへのハードルが4歳にしてとてつもなく上がる。

吃音に「なる」と表記したのは、同じ1音目でもあとに続く言葉次第で出せたり、出せなかったり。
例えば僕は「せ」から始まる言葉が苦手だった。
単純に「背」と発音するだけならできます。「せっかく」と発音することもできる。
ただ、「背くらべ」とすると吃ってしまう。
「せ」の後に何がつながるかで吃るか、普通に話せるかが、経験的にわかるようになってきていた。

4歳でなんとなく自分は
生まれつき言葉を発するのが苦手なんだ
という自覚が芽生える。
あくまでも「生まれつき」である。
これは保育所の先生に言われたから、近所に住んでいる人達に言われたから、親に言われたから、○○に言われたからがそのまま自覚に繋がる年齢である。しょうがないことなんだなと思うようにしていた。

また、これをどうしたらAくんみたいに話せるか、親に相談するものの
「落ち着いて話そう」「あせりすぎだよ、ゆっくりゆっくり」
と言われ、病気であることに疑うことすらもしなかった。病気であることを知る13歳まで「生まれつき」と信じ続けることになる。
当然ゆっくり話しても早く話しても「話せるわけがない」。


2.辛くて辛くて仕方がなかった8歳


小学校に上がると国語の時間がある。
僕が通っていた小学校では2年生から授業中の音読があった。
1年生のときは宿題としての音読があり、これは家族の人に聞いてもらってプリントにチェックをもらうもの、それほどの問題はなかった。
出ないなりにも、あるいは読んだことにしてやり過ごすこともできた。

2年生からはそうはいかない。クラスメイトを前にして読むのである。
それは突然先生に指名されることもあるし、席順に読点読みをしていくものある。
ひたすらにものすごい緊張、高所恐怖症がバンジージャンプの順番を待つかのような感覚である。
いざ、自分の番、当然読めない、出だしは読めても途中で読めない、吃ってしまう。悔しい。
悔しいだけならまだよかった。
小学2年生、人と違うことを馬鹿にしてしまうお年頃である。
それが吃音ともなれば声が出ないだけでなく、ひねり出そうと口周りがプルプル震える、目をぎゅっとつぶる、やっと出たかと思えば一音を繰り返す。
(残念ながら中学卒業までどころか卒業以降もずっと馬鹿にする稚拙さの塊のクラスメイトであったが)

週2〜3回の国語に加え、当然道徳でも音読はある。高学年からは社会科や理科での音読もあった。
これを毎回馬鹿にされる、声に出して、指を指して、あるいはクスクスと笑われる。手紙を回されるときも合った。1人にではなく、大勢に。イジメにも近い。
ただ歩いているだけで笑われてなくても、笑われているんじゃないかとすら感じてしまう。
今思い出しても、笑われるその度に鈍器で殴ってもいいんじゃないかとすら思う。


果てには吃音であることで具体的なイジメが敢行される。多分5年生(11歳)くらいの頃。
まぁこれはよくある、上靴隠される、机を別の場所に移動される、黒板に吃音であることをイジられるような落書き、教室内の時間割表に国語の欄に目立つような落書き等のイジメ。クラス全体ではなく7割程度からのイジメだったけど。
悔しいなぁ悲しいなぁと枕を濡らしていた数年間。当然味方でいてくれる幼馴染もいて、助けられたりもした。
小さい田舎町のため小学校のクラスがそのまま中学校に繰り上がる。
 

いつか仕返ししたいな、いつか担任の先生に渡そうかなと自由帳に詳細をまとめていた。

でもやっぱり悔しいし、悲しいし、思い返しても学校は辛かった。


とはいってもテニス少年だったので、学校が終わり次第あるいは早退してテニスコートに向かい、土日は大会・遠征、平日も下手したら遠征で遅刻や休みを許容してもらってたので(強いっていいね!)



3.どうにか戦っていこうと決めた13歳


中学に上がってもメンツは変わらない、イジメに近いような形で継続。当然国語を始め、学校からのイジメ環境提供はやまない。

将来を考える中学生、実体性を帯びた将来の夢や職場体験がある。
そんなわけで、
「そんなしゃべれないんじゃ就職も無理じゃね?なにすんの?」とイジメがあったり。
そこに加え、情報の授業で調べたんだろう。
吃音症って病気じゃん!しかも治らないらしいじゃん(大爆笑)」と病気であることをイジメの材料にしてきた。
生まれつき」だとそれまで思っていた、それが「吃音症」って名前の病気であることを初めて知るショックとそれを材料にイジメられるショックと。
自分でも調べたりして、当時は治らないと書かれていたことだけ覚えている。学校や街の図書館で調べたけど、書いてあることはほとんど同じ。

一方で中学生、総合学習で○○発表会(個人)みたいなものがある。
小学校でも発表会はあったけど、一言だけとか、セリフがない裏方とか、
どうにか避けてきた。
ただ、これは完全個人、発表必須。避けられない。
病気であることを自認しながらも、これはやらなきゃいけないのかとショックを受けた。


ただイジメにも慣れ(慣れってすごい)、覚悟ができる。なんとかやっていかなあかんよなって。
なんとか頑張るか!
このマインド、ここで身につけられたことが大きかった。

練習してみると、またこれまで色んな言葉を話してみると、言葉の選び方でうまく話せることがあることに気づく。
 ・「生徒会の前期活動報告をします」
 ・「活動報告についてはこちらが前期生徒会のものになります」
例えば同じ内容の上記では後者のほうが僕は吃らずに話せていた。



それでも失敗することが多く、失敗=嘲笑の的になることを考えると、
「緊張」→「うまく話せない」→「さらなる緊張」→「もっと話せない」
という負のループ
が完成する。
総合学習の発表会のときはうまくいかなかった。よく覚えている。
クラスメイトはもちろん、上級生にも笑われたのをよく覚えている。

ただ、「うまくやることでできる可能性がある」、この成功体験(獲得?)は何者にも代えがたいものだった。
どうにか戦っていこうとこのとき決めたのだと思う。

その後、読書感想文で特別賞を取った大きな市民ホールでのスピーチ体験(これは吃りこそしたが完走した)、高専入学に進む中での面接(吃りこそしたがちゃんと最後まで話すことができた)等人前で話す機会が増えた。むしろ自分から増やしていった。
当然逃げたくもなり、ほとんど吃ってしまいうまく喋れるわけではない。
がしかし、やっぱり「なんとか頑張るか!」のマインドは強く、乗り越えてこられた。

高専生活はとても良いものだった。
まず、吃ることでイジメをする人間がいない。
あの小中学の彼らは稚拙だったのだ。笑わない応援してくれていた幼馴染たちは本当にいい子たちだったのだ。
当然なにか発表する機会は多くはあるが、初めはうまくしゃべれないことにびっくりはする。ただ笑いはしない。これにすごく救われた
吃音を治すヒントをいくつか得られたのも良かった。

ヒント1つ目は英語にあった。
英語という言語は口がなめらかに動くように単語のつながりが言葉となっている。
不思議と吃らなかった。これはすごいことだった。
中学でも英語はあったが、受験英語ということもあり、単語と文法をマスターしてればいい程度に捉えていたのでそこまでの考えが及ばなかった。
人前で話していて、当たり前の内容を話しているのに笑われない環境の快適さは本当に天国のようだった。

2つ目は演じることにあった。
英語がなめらかに話せるのは英語だからなのか?って疑問があった。
英語だからというよりかは、少なくとも第1言語でない言語を話しているときって演じていないか?と発想に至った。
授業の中でプレゼンする機会があり、たまたま担任が授業のときの癖が強い話し方をするので、それを真似て「演じてみた」のである。
これがビンゴ。ほとんど吃らなかった。笑い声こそ起こったがこれは嘲笑ではなく、モノマネを見たときの笑い声というのがわかった。
 *さすがにこれを次もと2回目以降はやらなかったが・・・

この成功体験はかなり大きく、高専卒業までに吃らない話し方というのは
できなかったが、繰り返しやることで解消に繋がるんじゃないかと思った。
なんとか頑張るか!」マインドで勝利が見えてきた。


4.人前で話せるようになった27歳


なんとか頑張るか!」マインド、とりあえず人前に出る、話す、うまく行かなければ再考・レビュー・鍛錬の繰り返し、地味な積み重ね、これを実践していく。
待てど暮らせど、うまくいく日がやってこない。ただ不思議と自信があり、自分が考えた方法なのでいずれ叶うと確信していた。
日々の人前での場でも、ゼミでも、インターンでも、卒業研究の発表でもそのほとんどが失敗、吃ってしまう。
ただその回数は着実に減っており、自分でも気にすること自体減っており、達成は間近だった。

院に進み、当然学会でも就活でも吃ってしまう。
ただ、吃らないよう話すための工夫は既に無意識下でできるようになっており、うまく話そうというより、自分の思っていることを伝えようのフェイズにいたので、この頃には吃ることによる影響や何らかの障害になることはほとんどなかった。

続けているうちに吃音症になるような話し方というのは27歳を過ぎる頃にはほとんど発生しなくなっていた。
繰り返し、積み重ねしてきたものの賜である。
スタートは13歳、実に14年に及ぶ鍛錬、積み重ね。気づけばなんら気にせず人前で話せるようになっていた。

旧友も新しくできる友達にも当然恋人にも吃音症かどうか気にされるようなことは発生しないし、自分でもほとんど問題ないレベルまでなっていると感じている。



31歳の今


吃音症”だった”時代、どう振り返っても辛い思い出ばかりで、如何に吃らずにうまく話すか、どうしたら気にならなくなるか、常に悩みながら話していたと思う。
僕の選択は荒療治でどんどんトライアンドエラーを繰り返し、体に、心に覚えさせていくパワープレイ。
当然辛い選択ではあったけど、このマインドは他のこと、例えば勉学、趣味、仕事でも骨身にしみついた精錬された「なんとか頑張るか!」マインドがかなり高度なものに仕上げてくれると感じている。

SNSをはじめて吃音症の患者に合う機会は何度かあったが、かなり環境に左右される病気なんだなと感じた、そして解決策も千差万別。
治った人や症状が軽くなった人もいれば、そうでもない人もいた。実際は変わらない人が多数だった。

たまたま自分に合った方法を一人で考え抜いて選べた僕はとても幸福で、
周りに助けられながら生きてこれたラッキーボーイであった。
これを他の吃音症患者が実践できるとは思えないし、実践したとしても同じように治ることもないと思う。
(3年前はがんばれって言ってるみたいだが・・・笑)




現在、吃音症に苦しむ人、周りに吃音症の方がいる人、吃音症を知らない人は理解はしなくてもいい、許容も最悪しなくていい。
せめて笑わないでください、それだけで救われる人はかなりいる。

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