第二章前編 ~飛翔~野球との出会い、小学校2年生から小学校4年生まで
水泳の課題がどうしてもクリアできず、逃げ回ってた私。水泳辞める変わりに野球をやれと言われ、半ば強引に地元の少年野球チームに連れていかれました。
その時琵琶湖に泳ぎに行くと言われ連れ出され、向かった先はグラウンド。当時野球は恐怖でしかなかったので嫌でしたね・・・
2年生でしたが6年生も全て含めての練習にいきなり放り込まれ、準備運動の段階で躓きました。どうしてもできない動きがあって、苦労しました。
ここで少年野球について話します。少年野球は大きく3つに分かれていて6年生主体のAチーム、5年生主体のBチーム、4年生主体のCチームがあります。今は3年生以下のDチームというのもありますが、公式試合があるのはCチームから。当然私はCチームに属することとなります。
当時はライパチという言葉があり、入ったばかりの子はキャッチボールもまともにできないので飛んでこないライトを守り、打順も影響の少ない8番を打たせることが多かったです。それで産まれた言葉がライパチ。ライトで8番の略です。今ではイチロー選手の登場により、ライトは重要ポジションとなりライパチはありえないですけどね
どうにか準備運動をクリアし、それぞれのクラスごとの練習に。私は入団したばかりだったので、別の練習に、壁当てを命じられましたが、壁当ては一人遊びでずっとやってたので問題なし、ですぐティーバッティングに。ここでも豪快なスイングと打球を見せました。
当時のCの監督がAの監督・コーチ(Aクラスがチームのトップなので代表です)に「すごい子が入ってきた。いきなりキャッチボールもできるし何でもできる」とでAの監督・コーチは私を知っていたので「なんや、あいつか。ならすごいはずやわ」と。
当時は野球が嫌で嫌で仕方なかったです。休みがちでした。けどクリアできなかった動きは必死に練習してクリアできるようになりました。で監督から「そろそろどうや」と誘われ、休んでは行き休んでは行きを繰り返してました。
鳴り物入りで加入して、さっそくCクラスの試合に出場してましたね。ファーストで、次兄がファーストだっからでしょうが、4年生のチームに入ったばかりの2年生が試合に出る。異例だったでしょうね。まぁその頃はへたっぴでしたね。上級生のボールが早いので怖かった記憶があります。1日3つのエラーが平均でしたね。取れないから。その時はフライもよう取れませんでした。打順は覚えてないです。
初めてもらった背番号は39番です。この番号はやっぱり思い入れがありますね・・・もしプロ野球選手になったら一番初めにつける番号は39だと妄想してました。大きな身体だったので倉庫に置いてあったユニフォームじゃ入らなくて特別にもらってましたよ。
幼稚園卒業時には慎重128センチありましたからね。小学校2年だとどれくらいだっただろう。140センチくらいかな。
でいつの頃かファーストからサードを守るようになり、レギュラーになってました。なんでサード守りだしたのかは定かではないですが、サードが天職でしたね。エラーも少なくなったし。3年生時はずっとサードでしたね。たぶん。
3年生になったとき、運命的な出会いがあります。同級生も徐々に増え、Cチームの主力と呼ばれるようになり、投手を決めるテストが行われました。
テスト内容は誰が一番ストライクが入るか。で同じ3年生の子1人と私が最後まで残り、私が最後までストライクを決め、投手となりました。スピードはないけどコントロール抜群の投手。
Cクラスの初めての試合、誰もが私が4番だと言ってましたが、実際は5番で出場でした。5番投手。けど上級生(4年生)が下手でとにかく弱いチームでした。投げても投げてもエラーでランナーが溜まり、点を取られる。マウンド上でずっと泣いてましたね。ある試合なんてノーヒットに抑えてるのに負けるなんて試合もありました。とにかくずっとエラーだったんです。辛かったですね。あの頃は。一番しんどかったんじゃないかな。いい思い出がないです。勝った覚えもないし。
4年生になって背番号も20番に変わりました。でCクラスのキャプテンに。Cクラスの試合では背番号10を背負うことに。二つの背番号をこれからもずっと持つことになっていきます。3年生の時、試合中に監督に呼ばれ、お前がピッチャーだとしたらキャッチャーは誰がいいと聞かれ、私が同級生のポジションを決めていきました。監督から信頼されていたんでしょうね。
私はエースで4番、キャプテン。Cクラスの監督には興国高校で甲子園出た方がなりました。この方私の幼馴染の女の子のお父さんで、私の野球における恩師です。昨年亡くなってしまいましたが。ミーティングを非常に重要視し、甲子園ではこうだという戦術を教えてくれました。
でCクラス初めての大会。キャプテンなので抽選会に行くのですが遅刻してしまい、トーナメント表決まってしまってました。残り札をとって静かに聞いてましたね。
で2年生からチームに参加していたのが私を含めて3人いて、その3人に多く打順を回したいということで、3人が1.2.3番に入る打順。私は3番でした。初陣。その3人が三者三振。監督が「大丈夫か?このチーム」と心配されましたがなんてことない。私のピッチングで相手を抑え、攻撃陣も好調でコールド勝ち。次戦監督が相手チーム見ていいチームだと言ってましたが、結果7-0のコールド勝ち。あれよあれよという間に勝ち上がってました。途中からチームの体制が整ったということで私は4番固定に。
けどその大会途中極度の不振に陥り準決勝・決勝のダブルヘッダーでは3番を打ちました。私が唯一4番じゃなく出た試合。
決勝は終生のライバルと言える同じ堺市のチーム。この時初対決でしたね。私は右投げ右打ちで4番・キャプテン・エース。向こうは左投げ左打ちで4番・キャプテン・エース・いつも比べられ、その後もずっと対戦し続けたチームです。彼は後に上宮高校に行き、広島カープにドラフト指名受ける選手になるんですけど、私は一度も負けた事がありません。
彼との初対戦でしたが、私は不調だったのがウソのように打ちまくりました。スリーベース打ったと思います。で彼を抑え込み、優勝。初めての優勝でしたね。
別の大会も始まっていて、その大会は3位だったんですけど、勝ち上がっていくにつれスケジュールが密になって、連投連投を繰り返してました。投手は私一人でしたから。整体に通いつつケアしてました。けど連投が祟ったのか肘が激痛を起こしました。投球後整体に行って肘の治療をする。その繰り返しでテーピング巻いたりで投球する日々でした。
その当時私は足を開いて投げる投球だったので、それを矯正するように指導されました。5年生時には全く違った投球フォームになってました。
後4年生ながらAクラスの試合にも出てました。BクラスはAクラスの試合に専念するため、試合はなくAの人数が足りないときには私が駆り出されました。ファーストで出場してましたね。上のクラスは嫌で嫌で仕方なかったです。まだ自信はなかったので。自分たちのクラスでは無双状態でしたけど・・・Aクラスでも打てたりはしたんですけど、やっぱりフライが苦手で、次兄譲りですね。フライはとれません。
4年生時には優勝もあったけど結構負ける事も多く銅メダルとか多かったですね。初めて大阪府の大会に出場することとなり、そこで上には上がいることを思い知らされました。私は同学年では大きい方ですがさらに大きい人も多く、凄い選手、いいチームが多かったですね。負けてよく泣いてました。大阪府の大会ではベスト16でした。
思いつくまま書いてたら思ってたより長くなったので前半・後半に分けますね。とりあえず4年生までの話。思い入れの深い話は書く事がたくさんあってスラスラ書けますね。