【第二章】後編~全盛期~小学校5年生~6年生まで

5年生になるとAクラスのレギュラーも兼ねるようになり。背番号は7に。監督の方針でBクラスも並行して戦っていく。Aクラスには期待しない。監督は私の卒団と共に勇退すると宣言。監督が一番怖かった時代ですね。竹刀持ってましたから。6年生は下手なのによく練習さぼって怒られてましたね。

当初Aクラスでは新しく入った人が投手になった関係でファーストを守ってましたが、新加入の選手がファースト守る事となり、外野を守る事に、レフト・センター・ライトと守ってましたが、ライトが定位置に。そのうちサード守ってた人が辞めるといい、私がサードのポジションに。打順は6番だったかな。

肘を痛めた事により、足腰を鍛えるとして4年生時からチームが守備練習している間近くの池(1.2キロ)を走る事に。タイヤ引いて走ってました。トライアスロンしてる人がいてその人が付きっ切りで教えてくれました。本当恵まれてましたね。守備練習はしないけどAクラスの試合には出る。投球練習も一切せずとにかく走る。それまで足遅かったのが急に早くなりましたね。そりゃ普段タイヤないから軽いので早いですよ。長距離も苦手だったのが得意に。とにかくずっと走ってたな。努力といえば努力なんだろうけど、やらなきゃいけないと思ったからしていただけで、努力という感じは当時なかったなぁ・・・

Aクラスでレギュラーだったのに、守備練習は参加してませんでした。チームが守備練習中ずっと走ってたので、で試合になるとサードを守る。エラーはほとんどなかったと思いますよ。強肩の強打のサードです。三塁線は得意なのに三遊間は苦手でした。ですので、いつも三遊間よりに守ってましたね。なのに三遊間のボールは取れませんでした。三塁線は取れるのに。この頃の癖で後々ファースト守る事になるんですが、一二塁間寄りに守るんですよね、ファーストでも。ファーストだと一塁間寄りに守らないといけないのに。

ある時Aクラスの試合でエースの人が風邪ひいたかで欠席。で急遽私が投げる事に。ピッチング練習も全くしてないのに、急に言われ、試合前に何ヶ月かぶりに投球。今でもあの感覚覚えています。キャッチャーまでの距離が近く感じて、ボールがめちゃくちゃ早いと自分でも思った。元々コントールは抜群でしたから、狙ったところに思いっきりいいボールが行く。面白かった。投げていてとにかく面白かった。試合でも相手は上級生だったけど面白いように抑えれる。この試合から野球に自信が持てるようになりましたね。打てるもんなら打ってみろって感じでした。投球フォームも変えたことによって肘の負担もなくなり、クロスステップの投球になってました。

Aクラスのエースの人が4番打ってたんですけど、その人がいない場合は私が4番でしたね。他の上級生抑えて、チームの4番は嬉しかったですよ。5年生の時はバンドのサイン一回もなかったですね。いつも打てでした。期待には応えていたと思いますよ。

Aクラスのレギュラーとして活躍中でもBクラスで背番号10キャプテンとして試合に出場してました。こちらではエース・4番・キャプテン。この年に史上初めての事を成しとげます。堺市には春季・夏季・秋季と3季の大会があるんですけど、その全ての大会で優勝しました。史上初めての3季連続優勝です。チームで記念メダルまで作りました。これは宝物ですね。私たちだけのものなので、出る大会出る大会勝ちまくり、負け知らずのチームでした。いつからか市では相手ならず府相手が当たり前になり、どうやったら府で勝てるかがテーマでした。府では勝てなかったですね。

ある日練習試合でAクラスの試合をした後Aクラスの4試合をするということがありました。Bクラスの試合で背番号10をつけてとうしゅとして投手として 出て好投、勝利。で続いてAクラスの試合で背番号7をつけてサードで出場。相手チームが三塁側で父兄が私に気づいて「あの子さっき投げてたやんな」とささやく声が聞こえました。誇らしい気持ちでしたね。すごいと相手にも思ってもらえてるのが。しんどさってのはなかったですね。楽しかった。

Aクラスは堺市で最弱と言われてました。で私たちBクラスが強くって監督もこちらを期待するようになり、6年生の父兄がボイコット起こすなんて事もありましたね。監督も頑固で、「じゃあいい。5年生連れて試合に出る」といい実際に試合しましたね。その試合10-10で引き分けでしたよ。負けなかったけど私10点も取られてるんだって今になって思います。

6年生はメダル獲得できず、いつも1回戦負けでしたが、最後の最後にほぼ私たち5年生がレギュラーの状態で大会に出て準優勝しました。その時6年生の人達は銀メダルうれしそうに持ってましたね。で会長が「お前たちいい後輩もってよかったな」って最後に言ったのを鮮明に覚えています。

ついに最上級生になり背番号10番。第20代キャプテンとなりました。エースでしたがキャプテンだったので1ではなく10番。背番号1は憧れの番号でしたね。ずっと1つけたかった。背番号も我々の世代で新品にしました。

監督も勇退を決めて怖かった前年とは大違いで練習内容も私に一任。ほぼほぼ私が練習どうするかを決めてやってました。グラウンドのルールも自分たちで決め、グラウンド出る際は自転車からきちんと下りて帽子脱いで挨拶するというルール作ったり(今でもそのルールは残ってます)自称ですが今につながる事を作り上げた世代、中興の祖だと思ってます。

前年3季連続優勝した事により、全チームから追われる立場となり、地元で歩いてると指をさされ「あいつやあいつや」と言われるくらいの有名人となってました。

エース・4番・キャプテン。当時の代表から「負けたらお前の責任。勝ったらチームのおかげ」だと言われその責任を全部追うことを宿命つけられました。打たなきゃ負ける。抑えなきゃ負ける。その状況下、プレッシャーはなかったですね。打たれる気しなかったですし、打てないとも思わなかったので。打ちまくり、抑えまくりで勝ちまくりましたよ。連投連投は相変わらずで1日2試合が当たり前でした。

けどやはりいいことは続きません。大阪府知事杯の準決勝の際に突然肩に激痛。マウンドからキャッチャーまでボールが投げれない。マウンドから半分までしか届かなくなったんです。涙流しながら投げましたが、無理。ファーボール連発で、見かねた監督が交代を告げて、ライトのポジションに。取っても投げれない状態だったので取ったら手渡し。

準決勝はなんとか勝って、決勝。ダブルヘッダーだったので、監督から「お前行けるか?」と言われ「はい」と答え4番ライトで出場。決勝も勝ち優勝しましたが、尋常じゃない痛がりにスポーツ整形外科をすすめられ、試合後診察に。診断結果は疲労骨折。小学生で疲労骨折は珍しい。一ヶ月投球禁止とリハビリを言われ、インナーマッスルを鍛えるリハビリを週三回やってました。

この大阪府知事杯思い入れの深い試合で、準々決勝で優勝候補のチームと当たったんですけど、そのチームのエースが120キロ投げるエースと言われてて、確かに早かった。全く打てませんでした。ですが私も100キロ超える球速持っていて0-0.小学校の試合は7回で終わるんですけど、時間が早かったので延長戦。8回攻撃でも点が入らなくて0-0で、抽選に。

抽選というのは最後に出ていた9人が封筒を引いて勝ち負けを決めるもので、うちのチームは伝統的にこの抽選弱くって監督も嫌だって言ってたんですが、勝っちゃって、準決勝迎えたんですが、私疲労骨折でボロボロになって8-8のまた引き分け。でまた抽選。これも勝ったんですよね。

この時って私折れてるの知らなくて野球してた。普通にヒット打ってるんですよね。今思えばあの時ってバット持っても痛かったんです。けど我慢してやってました。

決勝戦も思い出がありますね。決勝の相手は隣町の同じ堺市のチームでした。4-4で最終回裏の私たちの攻撃1アウト2塁。バッター3番。ここでバンドのサイン。私は4番。骨折してたけど絶好調。ようし俺で決めるぞと思ってたた3番がバンド失敗。ファウルで追い込まれ打てのサインに。ヒットを打ってサヨナラ勝ち。手柄奪われました

で大阪府知事杯なので当時の大阪府知事は横山ノックさん。表彰状に横山ノック(本名山田勇)と記載があり、読まれた際失笑が起きてました。この賞状だけ全員分コピーして配りましたね。羽曳野市の河川敷のグラウンド。今でも思い出深いところです。

骨折後はリハビリを続け大会には出場するものの投げれないのでファーストで出場。受けては手渡しという感じでやってました。

ファーストのやつがレフト、レフトがショート、ショートがピッチャーという布陣。ファーストのやつがグローブ持ってないといい私のグローブ貸してましたね。

骨折してて悔しかったのが、その時初めて大阪府でベスト8になって大阪代表として西日本大会で出たんです。ちょうど骨折リハビリ中でした。

西日本大会ともなると抽選会がでっかいホテルで行われ、緊張しましたね。みんな強そうでした。

1回戦は広島のチームと、私は4番ファースト。こちらの守備練習中広島のベンチで父兄が応援の練習してるんです。しゃもじでカンカンと。これにはまいりました。集中できない。試合は同点で最終回満塁で7番バッター。三遊間抜ける当たりを打ってサヨナラだ~と思ってたらレフトがむちゃくちゃ前にいてファーストに投げてアウト。同点抽選に。抽選に苦手意識はなくなってましたが、この時は負けました。

もしこの試合私が投げていたらと思うと、少し悔しい思いがありますね。広島のチームは準優勝したらしいです。

疲労骨折という憂き目にあい、リハビリお日々。投球練習、キャッチボールができないので、守備練習に参加、隣に後輩居らせて、取ったらその後輩に渡すってのを繰り返してました。この疲労骨折以後全力で投げるのが怖くなりました。今でもです。全力で投げるとまたあの痛みが出るんじゃないかと思うと怖いんです。尋常じゃない痛みでしたから。スポーツ整形外科に通い、軽いダンベルをもってインナーマッスルを鍛える日々。野球の練習の苦労を思うとインナーマッスルを鍛えるのって退屈なんです。負荷もないし、今でこそインナーマッスルって当たり前ですけど、当時20数年前の話です。かなり最先端ですよね。当時ってまだ水飲んじゃいけないって時代でした。けど私たちは水分補給の重要性を説かれ、試合前にははちみつとレモン、ポカリを混ぜたドリンクを飲み、冬場は身体温めるためココアを飲んでました。ベンチにお茶も入れてましたし。朝早い試合前には身体起こすためにシャワー浴びる事も言われてましたね。荒木・井端選手のようなプレー、セカンドがキャッチし、ショートにパスして一塁に投げるや、ランナー1塁で相手がバントしてくるときファーストが猛ダッシュして、バッテリーはアウトコースに外し、セカンドが一塁入って牽制で刺すなんてのもやってましたね。今でこそ常識ですが、その当時は誰もやっておらず私たちだけでした。そりゃ強かったですよね。選手集めたわけじゃないのに、地元の同級生が集まってできたチームでここまでできたなんて。今でも少年野球のチームでは私たちの20期生が伝説化されてます。私は伝説の人らしいです笑

リハビリ続けていく中で医者から10球だけ投げていいよとか30球まではOKと制限付きで投球が解除されました。で試合の最終回に投げるという機会を得ました。そうすると私を知っている相手チームは「あいつ出ていた」とザワザワするんです。それを分かったうえでマウンドに上がり無双を見せる。快感でしたね。球数制限があるので、早く終わらせる事しか頭になかったです。早く打てとか三振しろとかね。当時横浜で大魔神佐々木投手が活躍してたので、もしプロに行ったら抑えの投手やりたいと思ったのがこの頃ですね。あの時の快感が最高なんですよ。制限ある中その制限内で抑えて勝つ。周りからは「やっぱりすげーや」という事が聞こえてましたね。

先発復帰は大阪府の大会の1回戦でした。その時まだ1ヶ月経ってなかったので、今日は投げないだろうなって思ってたら投げろと言われ、投げれるか不安の中登板し、味方もエラーしまくりで負けたと思います。緊張した登板でしたね。そこから卒団までエースとして復帰しました。その中で抜いたボールを覚え、面白いように三振取れたので多投してたのですが、Cクラスの監督してくれてたコーチに怒られました。全力で投げろと。今だからこそわかりますが一度楽を覚えてしまうともう二度と戻れないんです。だから全力で腕振って投げ続けるべきでしたね・・・

ここで思い出の試合をもう一つ。2年生でチームに入ったのが3人とお伝えしましたが、一人は父親の仕事の都合で転向したんです。で他所のチームに入ったのですが、ある大会で1回戦勝てばその子のチームと対戦できると。私たちは余裕だったんですが、向こうが弱かったそうで1回戦勝てるか分からないと言ってたけ勝って、対戦することができたんです。

で私は肩骨折後で1試合すでに投げた後で連投はさすがにさせれないと。けど友人のチームだから失礼なことはできないと、チームで相談中、父親が「お前キャッチャーやれ、キャッチャーで返球してるうちに肩よくなるやろ」と途中で登板するようにキャッチャーで準備しろと。キャッチャーは初めてでした。でキャッチャーがセンター、センターがピッチャーで試合開始、センターのやつ初めてピッチャーしたのですが1回を3者凡退に抑え、ベンチは大盛り上がり。けど2回いきなり崩れファーボールファーボールでノーアウト満塁。監督が見かね投手交代。ノーアウト満塁で私が登板しました。この場面私は5球で終わらせたんです。まず三球三振。で次のバッターを投手ゴロのホームゲッツーで。ベンチから「さすがエース」と言われ、その後も登板。友人は4番でした。4番以外の時は手を抜いて投げて、友人が打席に立った時本気で投げました。その初球すさまじいボールがど真ん中に。グラウンド中が騒然としました。友人の時だけ本気で投げ抑え、当然のようにコールド勝ち。その友人今千葉にいるのですが、最近連絡が来て再開しました。私が入院した事を知らず、ビックリしてましたが、思い出話で盛り上がりましたね。とても思い出のある試合でした。

後笑い話ですが、大阪府の大会に出るようになり、大阪代表となったチーム。大阪府ともなるとチームはベンチに横断幕掲げたりするんです。うちは弱小だったのでなかったんですが、強くなったためみすぼらしいと私の父親がテントの切れ端(父親はリフォーム業なんです)で横断幕つくりました。その横断幕ができた途端チームは急に勝てなくなり、私も別に不調とかではなかったのですが、勝てなかったです。で監督がお祓いにいってきてほしいといい、私のユニフォームと一緒に横断幕お祓いしてもらったんです。そっからやっと勝てるようになりました。あれから20年経ちますが、まだその横断幕はチームにあります。
もう1つ私は何故か急に制球が定まらなくなる時があります。三者連続四球でノーアウト満塁なんてしょっちゅうでした。でそこから三者連続三振ってのがざら。監督も始めの頃はどぎまぎしてましたが、最後の方はまたか見たいな感じでした。それできるなら最初からしとけやみたいに。相手に期待させるだけさせて、落とし込む。満塁になると吹っ切れるんですよ。打てるなら打って見ろって。今の今までに繋がる逆境に強いって性格なんでしょうね。追い詰められれば追い詰められる程力を発揮する。満塁になって相手ベンチが盛り上がってから三者三振になった時のがっかり感。好きだったな~。面白かった。性格悪いね。私

後大阪代表になった時、ユニフォームに大阪という文字を入れてほしいと連盟に言われ、私たちは堺としか文字がなくこのままでは試合に出れないという事態になった事があります。今からユニフォーム作り直すのも無理だし、どうしようかと言う時、地元のスポーツショップが大阪というワッペンを作ってくれ、それをユニフォームに張り付ける事で事なきを得ました。今そのユニフォームを付けて子供たちが野球してます。それは我々が苦労してつけたものなんだぞって思い見ています。

5年生時には市で全ての大会優勝したんですが6年生時はというと全て準優勝。けが人も多かったんですね。私も含めレフトの子は骨折、センターの子は足の指の骨折とかで人が欠ける事が多かったです。

けどメダルはたくさんありますよ。金・銀・銅。最終週選手のトロフィーとかも。

で今でも語り継がれるの最後の大会。毎年最後の大会が2月にあって、負けたら卒団という状態です。私たちは決勝まで残り、新チームの試合が始まってるのに、まだ卒団せず残っているという状況でした。

最終回ランナー3塁でベンチ見たら”外せ”のサイン。私は確認したのですが、キャッチャーが見てない気がして外さずど真ん中に投げました。球威に押されて失敗しろと念じて、スクイズを決められ、サヨナラ負け。あの時タイム取って確認しときゃよかった。自分の弱さが出た試合でしたね。けど私たちらしい最後。今でも語られてるんだから。

卒団になって当然スカウトがたくさん来ました。けど監督さんは地元とのつながりを重要視する方で地元の中学校に行かせるとスカウト皆断ってたそうです。直接両親のところにも来てたそうですが、長兄の失敗からボーイズリーグはこりごりとこちらも断ってました。

直接私のところに来たスカウトもありました。多くのプロを輩出してたジュニアホークスです。ライバルだった子が行く事が決まっていて、「右と左のエースでうちはやるんや」と意気込んでました。けど私は抑えへの憧れがあって、”エースはお前でええ、俺はストッパーになるんや”と思ってましたがチームメイトと離れて野球をすることに違和感を覚えたのと長兄の苦労をおぼろげながら覚えてたのでお断りしました。あの時スカウトに応じて行ってたらどうなってたでしょうね。パラレルワールドです。けどたぶん途中で挫折してたでしょうね。ライバルの今の現状を見てるとどっちが幸せなんだろうと思ってしまいます。

この小学校時代に野球の楽しさ、チームワークの重要さ、ライバルが自分自身を育てる、努力は報われる、上には上がいるということを実感できたからこそ今の自分がいると思ってます。本当に充実してて、恵まれていたなって思います。その後の転落劇から這い上がれたのもこの時代があったからこそです。自分の中で全盛期はここかなって思ってしまうほどの充実ぶりでしたね。ここから一気に転落してしまいます。人生のどん底です。思い出すと今でも涙が出るくらいの時期。けどみなさんこのどん底が知りたいんですもんね。しっかり続き書いていきますよ。

よろしくお願いします。次回は激動の中学時代

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