【第4章】~再挑戦~捨てる神あれば拾う神あり
色んな人の協力があり、なんとか高校に入学する事ができました。人生で唯一努力したと言えるのが高校受験です
5教科で200点取れなかったのが受験前には250点取れるようになりました。
高校ではなんの問題もなく受け入れて貰えました。
けどオリエンテーションの際に怪我をして、右手首、右足首を捻挫しました。動く側を捻挫して苦労しました。この怪我以来無茶はしないようにと決めました。
で1年の担任の先生が野球部の顧問の先生で、オリエンテーション参加出来なくなったから、話をする機会があって、先生から「お前野球やってたんやってな。」と話かけてくれて、しかも小学校の時の先輩(2年生時のチームのキャプテンでした)を知っていて、同じ野球部でした。「あいつの時が野球部1番強くってな、ベスト16までいったんや」と思い出話までしてくれました。
で「何も打ったり守ったりが野球やない、ライン引いたりスコア書いたりも野球や。1打席でも打席に立てるの目標にやってみないか」と誘ってくれました。家に帰って親に「野球部に入る」といい始め反対されましたが、きちんと話をし、賛成をもらい、中学以来封印してたユニフォーム引っ張り出して野球部に見学に行きました。親からは高校ではゴルフしろって言われてました。ゴルフ部がある高校だったんですよ。ゴルフなら障害あってもできるやろうと。それがまさかに野球部。見学からすぐ野球部に入って、スコアを書く勉強しました。ずっとプレイヤーだったからスコア書くのは初めてでしたが、知識はあったのですぐ書けるようになりました。練習は参加できるものだけやって、マネージャー業兼業みたいな感じでした。初めてやる野球から見る野球になり、この時期の経験が今に繋がってますね。貴重な経験でした
1年生から3年生チームのスコアラーとして帯同し、ずっと監督の横にいて、「この場合はどうしたらよいのか」という話をよくしてました。ずっとスコア書いて、監督、顧問の話をして野球にかかわってました。
2年生になってもほぼ同じような仕事で、マネージャー業兼業で打撃練習とか参加できる部分はしてそれ以外は練習サポートかトレーニング室で筋トレでしたね。
2年生の時だったと思いますが、試合で代打として立つ機会がありました。今も覚えてます。堺市の高校での試合でした。初めての硬式。もうあきらめていた打席。緊張して振れませんでした。見逃し三振です。監督に「代打に行ったんなら振って帰ってこい」と言われました。振れるような状況ではなかったです。相手は私の障害なんて知らないでしょうし、本気で向かってきてた。打席に立てただけで胸いっぱいなのに・・・
2年生時にはもう1つ変化がありました。3年生のエースの方が怪我して練習に参加出来なかった際に顧問の先生がエースのグローブ借りて守備練習参加しろと。
というのもメジャーにアボットという投手がいてその方右手首の先がないんです。グラブスイッチっていうテクニック使って野球やってました。左手で投げて左手で取るってやつです。それをやって見ろと。エースの左利き用グローブ借りてファーストの守備に、
初めてやりましたが初めから上手く出来ましたよ、それからちょくちょく守備練習にも参加させてもらうようになりました。
3年生でもマネージャ兼業で野球部に。練習前に一人でボール出して、ライン引いて、準備してましたね。全部一人でやる。みんながすぐ練習できるようにするんだって気持ちでした。これは今でも持ってる気持ちですね。後々に書きますけど・・・
3年生になって背番号をもらいました。何の因果か因縁か。背番号は10番でした。
弱い野球部だったので予選は当然1回戦負けでしたが。秋季大会は何年かぶりに一回戦突破しました。相手は大阪産業大付属高校、そこそこな強豪校でしたが、勝ちましたね。私は公式戦は出てませんけど。
練習試合では12打席ほど代打に出ました。10三振。一つのデッドボール。
特筆すべきはヒット1本打ったんですよ。それもはっきり覚えてます。奈良県の上牧高校です。代打で出て、振ってファウルだったんです。で打てるって思って、打ったら三遊間への当たり、思いっきり走りましたよ。走れないのに・・・で内野安打。監督に「あれはヒットか?」って言われました。後「お前意外と足早いねんな」とも。嬉しかった。障害を持って諦めた野球。ずっと振っても当たらず三振だったけど打てた。きちんとしたヒットを打とうと目標立てたけどそれ以後代打では出れず。野球をしたという証を残せたと思ってます。
最後の練習ではファーストの守備についてノックにも参加しました。
で下級生との試合では投手もやらせてもらいました。けどプレイヤーとしてはこれで終わらせるつもりでした。
野球部の話ばかりでしたが、学校では相変わらずいじめがありました。まぁこれは仕方ないです。高校生の内に脳こうそくで身体が動かない事なんて理解されませんから。だから私も障害の事は隠してました。だからこそ余計にいじめの対象になったんでしょう。中学・高校はずっと苦労しましたよ。勉強の方もリセットされたのか、点数取れるようになって、数学だけ赤点でしたが、2年生になり文系選択したので、数学はなくなり、得意科目だけになり、点数取れるように。3年生時にはクラスで2番の成績に。実力テストの成績もよく、部活動してたこともあって、大学は指定校推薦で、同じクラスの子も同じ大学受けようと指定校出してたけど担任の先生だけ棄権で後全員私推薦で見事大学推薦もらいました。
大学は1年生時に進路相談あった際にここに行きたいって行ってた大学に。というのも私小学校時代に京都の平安高校に行きたいと思っていて、図らずもその夢はかなわず・・・親父の知り合いに平安高校OBの方がいて、私の試合見に来て「いい選手だ」と褒めてもらってから平安に行こうと思ってました。歴史好きだったし、大阪だと当時PL全盛期で大変だという思いがあったので。で京都に行きたいという思いだけ残っていて、大学は京都に行こうと決めてたんです。後野球を続けるにはどうしたらいいかとも悩み、教師になって指導者として野球をしようと思ってました。で教師になるなら京都のこの大学だと先生にも推してもらい、そこに指定校推薦もらいました。
指定校決まった際先生からテストに小論文はなく面接だけだと言われいざ大学に行くと小論文のテスト。文章書くのは得意だったんで、その場の雰囲気でかきましたよ。確かグローバル社会についての事だったと思う。で面接。面接は2番目ですぐでした。面接では野球部入ったらどうやと勧められましたが、大学は片道2時間半だったのでお断りしました。みんなが受験勉強を意識しだす9月には合格が決まり、高校で一番最初に大学合格した生徒になりました。野球部の顧問の先生も喜んでいただき、授業に来る先生来る先生みなさん「よかったな」と言っていただきました。
頑張ってれば必ず認めてもらえる。そう思った高校時代でしたね。ずっとふさぎ込んではいましたが、友達もいなかったですしね。いい転機だったと思います。
次回は劇的に変わった大学時代です。人生のターニングポイントですね。第2の。お時間がありましたらぜひ