【歴史コラム⑪】伊達氏
久しぶりに歴史コラム。面白い大名がいるのでその紹介
それが伊達政宗公。独眼竜として知られてる東北の大名ですね。天然痘にかかって片目がつぶれて独眼竜になったと言われています。
さてこの伊達政宗公。母親に疎まれ、母親に殺されかけ、父親を人質に取られ、父親ごと撃ちと凄い人生なんです。
この伊達政宗って非常に変わっていて、そこが面白い。幼き頃、仏教に帰依してて寺に行った際、不動明王を見て住職に聞いた「仏様ってみな優しい顔しているのになぜ不動明王様は怖い顔してるのですか?」と聞く。すると住職は「不動明王様は怖い顔をしてみなに降りかかる邪気を払っておられるのです」と言われ、不動明王を信じて生きていく事になっていくんです。着眼点がいいですよね。有名武将って結構仏教大事にしているんですよね。私の尊敬する織田信長公も仏教大事にしてましたし。
伊達政宗公料理の達人でもあるんです。料理本も出してるくらいですし。
正宗公は「馳走とは旬の品をさり気なく出し、主人自ら調理して、もてなすことである」と言っています。私もその通りだと思ってます。おいしいもの食べたけりゃ、いい肉買ってきて塩コショウ振って焼いて食べたらいい。料理とは安い食材を工夫して調理しておいしくすることだと私は思っている。あっ今更ですが私料理もするんです。正宗公の言葉はその通りだと思ってて共感するんです。で気になって調べていくと面白い人物だと知りました。
産まれる時代が早かったら天下を狙えていたと言われる正宗公。時代は豊臣の時代で太閤秀吉公が北条攻めを行う際、正宗公にも参陣せよと命令を出した。けど命令に従うのを不服だった正宗公。なんと一ヶ月も遅刻。当然処罰の対象に。その際死に装束を着て大阪の城に向かいます。”私の命はあなたさまに預けます。遅刻したのはそれくらいに値するものです”と言い訳もせず素直に来て平服します。で許しを得て、東北へ帰ります。ですが今度は東北で一揆がおきます。東北一帯を巻き込む大きな戦い。これを扇動したのが正宗公だと。それを示す書状も出てきて今度は言い逃れできないという状況に。でまた呼び出され、また死に装束着ていきます。さすがに2度目は通用せず。が正宗公”太閤ともあろうお方が、偽物と本物の見分けがつかぬとは。私の書状は花押に穴をあけているのです”と言う。すると太閤秀吉公の手に入れた書状には穴が開いていない。で偽物だと認め許されたのですが、実は正宗公2種類の花押を使っていたのです。巧みな言い逃れ。この奥州一揆って、太閤秀吉公の歴史書豊鏡には記載されていない消された歴史なんです。それは敗戦したから。天下人が地方の大名に負けた歴史なんです。
伊達家は江戸時代も生き残り、仙台藩の初代藩主となった正宗公。江戸時代でも破天荒さは続きます。時は3代将軍家光。家光は初代将軍の家康を敬愛していて、家康と一緒に戦っていた正宗公が大のお気に入り。よく話を聞かせろとせっついていたそうです。ある時会う約束していたが、前日お酒を飲んで二日酔いの正宗公は将軍家光との面会をドタキャン。普通なら処罰の対象ですが、なんとお咎めなし。将軍はすごすごとかえっていったそうです。破天荒エピソードには事欠きません。ある時伊達家の家宝の壺を眺めていて、手が滑って落としそうになった際、正宗公はその壺を粉々に壊します。理由は”壺ごときがワシを焦らせおった”から。なんとも凄いお方。
伊達政宗公と言えば派手好みで伊達者と知られていますが、これにもエピソードが。朝鮮出兵の際、仙台城を出発する正宗公を見てきらびやかでたくましい姿から伊達者という言葉が産まれたと言われています。この時同士討ちしないようにと兵士たちには赤い鳥の羽をつけるように命令し、一目で伊達の兵士と分かるようにしました。人一倍目立つ伊達軍。そして大将の正宗公はというとなんとその場にいなかったそうです。正宗公背が低いのがコンプレックスだった。159センチだったそうです。太閤秀吉公が150センチ程度だったそうですが、で皆が見ている前に低身長のワシが出て行って恥かいてはいけないと、当時侍女の中に体格のいい人がいてその人を身代わりに立て、城を出るときだけその女性が正宗公の代わりをしていたというのです。伊達者が実は身代わりの女性だったなんて。見栄っ張りも正宗公らしい。それも含めて伊達者ですね。
まだまだ大名は多く面白い大名もたくさんいます。少しずつ紹介していけたらいいなって思ってます。