【第一章】はじまり 誕生~野球と出会うまで

産まれた時の話はプロローグで語ったので、すっ飛ばしますね。

今回は中身があまりない薄味だと思います。なんせ古い話で記憶もそこそこなんで。

1983年9月17日に無事生を受けた私。その当時兄は既に野球をやっていました。10歳と8歳か。チームには入ってたのかな・・・

さて当時の私というと、産まれつき手首が柔らかく、医者から「投手するような手首だな」と言われ、今でも自分の右手首を右手で触れます。骨太家族で身体も強靭に産まれつき、まさに野球をするために産まれてきたと言っても過言ではなかったでしょう。

産まれついて野球をしていた兄を見て育った私は、どんなおもちゃ与えても喜ばないのに、バットとボールを与えたらそれでずっと遊んでた子供だったそうです。バットとボールが私のおもちゃでした。見様見真似で野球を一人遊びし、物心つく頃には野球してました。

あっけど怪我も多かったですよ~。1歳の頃次兄について階段登っていたら落ちて足骨折。次兄曰く「勝手に転んで落ちたんや」と。3歳の時には交通事故。これは今でも鮮明に覚えています。長兄が自転車で前にいたので追いかけて走ったら車が来て轢かれました。タイヤが足に乗っかって、異常なほど腫れていたそうです。
幼稚園入園の翌日でした。ギプスして父親に抱っこされて移動してましたね。
1歳の頃折った足と同じ箇所を折り、左足だけ内股になるという症状があらわれました。ずっと真っ直ぐ足を出せと言われ続けてましたが、治らなかったですね。

その際両親は警察から「加害者にどのような罪を背負わせますか?」と聞かれたそうですが、許したそうです。これは最近聞いた話です。罪に問うのは忍びないという事で謝罪のみで示談。救急車が来ずこの加害者さんが車で病院まで運んでくれたそうです。ってか私の飛び出しなんで。それは私の記憶に残ってますんで。内緒ですよ。

そのうち長兄が中学校の野球部に入らずボーイズリーグに入りました。元ロッテの薮田投手のお父さんが監督していて、薮田投手とバッテリー組んだのが私の長兄です。で母親は幼い私を家に置いておけないと自転車の後ろに載せて、30分以上かけて通ってたそうです。私はずっとおとなしく乗っていたみたいですけど・・・でグラウンドについてもバットとボールで一人遊び。全く手のかからない子供だったそうです。

その当時のチームの打順とか兄が何番だと言うのを全て記憶していて、すらすら言えたそうです。ここんとこは全く覚えてませんね。その頃から神童や凄い子だと言われてました。
兄が練習してたグラウンドに大人になって言ったんですが、公園内にあるグラウンドで、ほとんど記憶なかったけどグラウンドについた途端、懐かしいと思って立ち尽くしてしまいましたよ。

次兄も地元の少年野球チームに入って野球してました。長兄は4番キャッチャー。次兄は4番ファースト。ネタバレですが私も4番でした。私はピッチャーでしたけど・・・

長兄はその後今でいういじめに遭い、ボーイズリーグを辞めてしまいます。いじめというのはまぁほとんど小学校から一緒にやってきた仲間が多かったチームだったので、他所から来た兄がレギュラーで試合に出るのが気に食わないといったものです。監督さんは守ってくれてたそうですが、兄は練習に行くとなると腹痛を起こしたり、頭痛になったりで行けなくなり、やめました。今でいううつだったんでしょうね。長兄の退団が後々私にも影響を及ぼします。で長兄は中学の野球部に入ってレギュラーとなり、活躍。卒業時に監督から「お前が希望すればどこの高校にもいれてやる」と言われましたが、兄は野球を辞めて父親の後を継ぐ決断をします。その時の同級生が浪花高校に進学し、甲子園に出場しました。誘われてたらしいですが、兄は甲子園出場する機会があったけど不意にしました。

次兄も4番として活躍してました。外野が後ろに下がっても上を超えたら同じやといいフェンスを越える打球を打っていたのが次兄でした。守備は下手で足も遅かったんですが、打撃だけは素晴らしかったです。堺市のチームの4番も打ってました。まぁこれは「チームの4番なんやから堺市の4番は俺や」と言って聞かず、代表の監督も別の選手4番予定が「こう言われたらしゃあない」と4番起用したという経緯があります。口で野球してると言われたほど口の達者な次兄でしたね。私の野球の影響はこの次兄から受けていて、バッティングフォームは次兄のものがモデルとなってます。

長兄は足も速くキャッチャーとして肩も強かった。市で2本の指に入ると言われた4番。ライナー性の打球で間を鋭く抜くバッティング。次兄は外野の頭を超える打球を打つ4番。ショートバウンドを取るのは上手かったがフライは苦手、足も遅かった。チームを引っ張る4番でした。

さて私は・・・

兄の話ばかりでしたが、幼稚園に通っていて、野球は一人遊びでした。壁当てをずっとしていて、兄達が所属していたチームにもずっとスカウトされ続けてました。幼稚園からは入れないのと、兄の時代は厳しく野球は怖いというイメージでした。人見知りも激しかったし。その時は何してたかというと水泳習ってました兄も3歳の頃から水泳習って、水泳辞めて野球に入ったらしいんですけど、入ってすぐ「飛び込める?」と言われ飛び込んでその場で進級し、泳ぎ一通り習って進級しました。

幼稚園の時の将来の夢はラーメン屋さんでした。ラーメンが好きでしたね。今も好きだけど。当時ラーメン専門店なんかなかったけど、家の近くに専門店があったんですよね・・・そこが好きで親に連れてってよく言ってました

で次のランクで50メートル泳ぐってのがどうしても無理で、水泳が嫌になってました。水泳を意図的にさぼるようになってました。で親から「水泳は行かなくていい、その代わり野球しよう」と言われ野球チームに入る事になりました。それが小学校2年生の時です。小学校2年生から野球チームに入るのはすごい早い事なんですけど

この続きはまた次回。幼稚園、小学校低学年は何かしたって記憶がないので、思い出語りばかりですね・・・



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