【第5章】~転機~ 大学生時代
大学に進学して、念願の京都へ、
PL学園を嫌った理由は宗教だったからってのもあった。けど大学は宗教職の高い大学。よく考えたら幼稚園も宗教系だったなwww
京都はほとんど宗教系の大学だからね
社会学部社会学科を専攻。片道2時間半かけて通いました。1時限目がある時は朝5時起き。6時半に地下鉄乗って、乗り換えて始発から終点まで。でそこからバスに乗って大学に。それでも9時の授業には遅刻する。電車早く乗ると早く着きすぎまるから、ずっとこれで。
次兄が大学卒業できず、1年留年したから、親から「あんたは4年で卒業して」と厳命されました。次兄は就職決まって、子どもができたから結婚する事になったけど、肝心の大学が卒業できませんでした。けど就職先が「あなたはできる人だから必ず卒業してうちに来てください。それまで待ちます」といい、就職待ってくれたそうです。そんな次兄も今やエリアマネージャー。人事のトップです。その面接官、素晴らしい先見の明ですね。次兄はいつめ家で寝てましたね。3回生時に単位1桁だったみたい。むちゃくちゃ
閑話休題
さて、私は教師になるという目標を見据え、教員に必要な科目と、必須科目に取り組みました。社会科の教師になろうとしてたんです。歴史は好きで得意だったから。地理は入院してた時に授業終わってたから地理だけは苦手です。歴史小説とかずっと読んでたしね。歴史って教科書に載ってない部分が面白い。知らない知識を入れるのが楽しいんですよ。
中学時代はリハビリに週3回病院に通ってましたが、高校になってそれが週1になり、大学になるともう症状固定されたから通院はなくなりました。ただ日常生活がリハビリだと言われ、いつ再発するか分からないから気をつけてと。結局脳こうそくの原因は分からなかったです。医者から「不慮の事故としかいいようがない。様々な要因が重なってなったんだろう」と結論づけられました。あの時堺市ではO-157の騒ぎで水道止められて水分補給できず、脱水もあっただろうし、先輩からの圧力のストレス、幼い時の交通事故による血栓が飛んだ、色んな事が重なったと
再発したら今度は命の補償はできないと言われ、それなら好きな事をして、後悔しないように生きようと。大学も京都に行くのは親から反対されました。近くにしなさいと。けどそれを振り切って京都に行くことにしたんです。
大学時代は考えが変わりましたね。今まで障害をひた隠しにしてきたのを、オープンにする事にしました。
というのもベートーヴェンの言葉が私にストンと落ちてきたんです。ベートーヴェンは耳が聞こえなくなって作曲してましたがその際「これは神が与えた試練だ、試練は乗り越えられる人にしか来ない」と。実はベートーヴェン全く聞こえなかったんじゃなく、少しは聞こえてたみたいですね。
この言葉を知って私も変わりました。神から選ばれたんだ。"この試練は俺だから越えられるんだ。なら誰にも真似できない生き方をしてやる"と。障害の事話すと意外にみんな理解してくれるんですよね。"大変やったね"とか"頑張ったね"とかが多いですけど、頑張ったつもりは全くないんですけどね。やるしかなかったからやってきただけ。野球でもそうでしたが、勝つために練習するしかないからしてるだけ。それは努力ではないって思ってました。当たり前の事
1.2回生時は教員の授業と東洋史を専攻してました。
ここでまた転機が来ます。大学2年の時、うちは土日だけスポーツ新聞入れてもらってたんですが、その新聞見てた父親が障害者野球の記事を見つけてお前もこれやれと親父が大阪のチームに連絡しました。私は野球は草野球できたらいい、障害者ではない、みんなと一緒にまた野球やるんだって思ってたのであまり意欲的てまはなかったです。
大阪のチーム2チームあって家の近くの方に連絡いれたんですが、片方のチームが解散しそうだからそっちに行ってって断られました。
でしばらく放置していたのですが、自分から障害者野球連盟に連絡して参加を決意しました。チームの代表の電話番号を聞いて、さっそく電話。電話したら「明日練習があるから来て」と
で父親と一緒に練習に行きました。いきなり練習試合で投手しましたが、久しぶりの軟式でボールが思うようにコントロールできず、けど相手チームからも「ボールが速い」と絶賛。けど肩壊した影響から投手はできないと思ってたので、高校時代にやってたファーストを希望するも、ファーストは足が不自由な人に守ってもらうと、比較的走れる私は外野をやってほしいとの事。ですぐ背番号を決める事になったんですが、そこで私は12番を選択しました。というのも目立たない番号を有名にしたいという思いがあって。今思えば後悔です。父親はずっと19にしろと、南海の野村の番号だと言ってました。19にしとけばよかった・・・
ライトを守るようになって、すぐ公式戦。加入して6か月だったかな。もう一つの大阪のチームは全国大会でも準優勝してるチームで高い壁となってました。一度も勝ったことがないと。私の公式戦デビューは途中出場からでした。守備について、そのまま打席。小学校時代の公式戦三振デビューが頭によぎりますが、センター前ヒット。無事デビューを飾れました。2回戦で例の大阪のチームとの対戦。私はライトでスタメン出場。打順は忘れました。7-0で勝利。初勝利です。そのまま決勝も勝ち。予選突破で初の全国大会に。全国というのは私の野球人生でも初です。障害者野球デビュー6か月で全国大会。全国大会では散々な結果でした。未だに全国大会では勝ててません。で一念発起。外野手はやっぱり嫌。ピッチャーこそ天職だと。監督に投手をやらせてほしいと直訴。2年目からエースになりました。地区予選では無敗を誇りましたよ。投手は途中でやめたので無敗のまま。全国では通用しなかったですけど。3年目くらいの時に肘を再度痛めてテーピング、痛み止め服用しつつ投げてました。で5年目くらいに今度は野球肩になりました。お茶もらったけどコップ持つ手が勝手に震えて、止まらなくなり、肩の痛みも治まらずスポーツ整形外科に行ったら野球肩だと。幸い軽度なので自力のリハビリで治ると。その際中学の仲間内で草野球チームを作り、一般の草野球だとファーストしか守れないとファーストミット購入し、障害者野球でグローブ慣らしていたら、ファーストでファインプレー連発でファーストのレギュラーに。投手は野球肩の影響で辞めました。でファースト転向。弱いチームこそファーストが重要になるんです。その重要性をずっと説いていて、手本見せた形でしたね。投手として全国大会に4年連続出場させました。投手辞めて、予選でまけるようになり、途中からキャプテン任されたのですが、それはまた後の話
さて大学生活ですが、自らプレーヤーとして戻った時に、”あれなんで教員目指すんだろう”と思うようになり、教員の授業は途中でやめました。自分にはやっぱり野球しかない。スポーツを通じて社会貢献をしていきたい。障害者のためになることをやろうと次の目標を見定めました。でゼミを選択する際に、自分の障害について理解してないな、脳こうそくって何なんだろうと思い、障害について勉強するようになりました。自分自身を理解するため。自分自身を受け入れるために。その際に性同一性障害なんかも知り、健常者として生きて、途中で障害者になった自分は両方の気持ちが分かる。だから健常者と障害者の橋渡しをして差別をなくしていこう。それが自分に課せられた運命だと思うようになりました。
まぁ甘い考えでしたね。今思えば。今のその思いは持ってるんですけど、差別はなくならないですよ。障害者側がすごい壁を持ってる。障害者側からの歩み寄りが必要だと思っています。健常者側はそれを受けいれる必要があります。そうしないと無理。やってくれるのを待つのではなく、進まないと。
障害について勉強して、3年生時から卒論に向けて書き出してました。テーマは”障害について”。
私の脳こうそくは遺伝じゃないかな。父親はよく腫瘍ができるんです。首の後ろからお尻とかに摘出手術何回も受けています。最近長兄もできているそうです。で私も時々できる。それが血管の中にできたのではないかなと思ってます。一度腕の中に血管腫が見つかった事もあります。
2000字の提出でしたけどあっという間でしたね。苦労もしなかったです。
で肝心の成績ですが、優と良ばっかりで、障害学生優秀賞として奨学金30万学校からもらいましたよ。日曜日に学校に呼ばれてなんだろうと思って行くと講堂で厳かな雰囲気でちらほら生徒がいて表彰されてました。で学生課に来てと言われ、行くと30万円もらえると。母親から返さなくていいのかを確認してこいと念を押されましたが返却は不要だと。その30万円で免許取りに行きました。何度落ちても大丈夫だっていうプランだったのですが全て1発で合格。天才肌なんですよ。私。
最後の最後1単位足らず、というのも祇園祭の影響で途中で電車止まってテスト受けれなかった科目があって、その1単位だけ落としてたんです。補修受けてなんとか卒業。けど卒業しても就職はできませんでした。
4年で大きく変わったけど社会人となれなかった私。いよいよ社会人となる日を迎えます。