【第三章】~転落、人生のどん底~中学生時代

いきなり衝撃のタイトルですが、事実ですからね。ウソ偽りはないですからね

さて小学校卒業後、スカウト全て断って、中学に進出。ここまでは至って普通です。野球の仲間一人と女の子一人を除いて8人全員で野球部に入部。野球部では小学校の先輩も居て既に名前を知られてました。全員で髪の毛を切りましたね。(当時は坊主という習慣はなくスポーツ刈りでした)1粘性はユニフォームも着せてもらえず、グローブを持つことも許されず、外野で球拾い。当然私も雑用してました。ボール一球なくしただけで激怒されたので練習後ボール数えて足らなかったら翌日朝早く起きてグラウンド回ってボール探して回収してボールの数を合わせてましたね

当時怖い先輩がいて(ヤンキーでした)むちゃくちゃなしごきを受けてたんですが、私はサボっても目こぼしされるほど優遇されてました。初心者の子はむちゃくちゃやられてましたね。連帯責任やって1年生全員やらされましたっが、上手なやつはうまくサボってましたね。水飲むなって言われてましたが、実はこそっと飲んでましたよ。上手く理由つけてね。上手いやつってのはばれないんですよ。サボっても。下手な奴はすぐばれて怒られる。世の常ですね・・・

3か月くらいした時にグローブ持っていていいといわれ、すみっこでキャッチボールが許されるようになりましたが、私だけ監督に呼ばれエースがピッチング練習してるのを止めて、いきなり「投げろ」と言われ、正捕手に正対してピッチングしました。がいきなりと緊張で思いっきり暴投。けど監督は満足気でキャッチャーに「エースとどっちが速いか?」と聞き。キャッチャーの先輩は「そりゃエースですよ」と言いましたが「1年の時と比べてや」と言ってましたが、回答はなかったですね。

で1年生全員集められてどこのポジション守りたいかと全員に質問・私は当然投手だといい、昔からの仲間は今まで守ってたポジションをそれぞれ希望してました。1年生は15人くらいいたのですが、投手希望が5人くらいいて、それぞれテストされてました。私だけテスト無かったですね。あと左利きの子と私が投手合格で、普段の守備練習はファーストに入ってやるようにと言われ、守備練習はファーストでやるようになりました

で1年生と上級生で紅白戦。我々の監督にキャプテンにしてもらい、キャプテンから4番投手と指名されました。で初めて中学野球部のエースと対決。とにかく大きい人でした。剛速球という言葉がそのままのエース・変化球も初めて見るし、緊張ですよ。その時バッティングは超不調でずっと一本足打法だったのをすり足に変えてて、けどこのちょっと前にまた一本足に戻してた時だったんです。

中学初めての安打はこの試合で生まれました。エースのインコース高めのカーブ。これを引っ張って、三遊間にヒット。これが不調を抜け出すきっかけとなり初安打。投球内容は覚えてません。どうだったんだろう。怒られた記憶ないから、そこそこの投球だったと思います。

練習でも昔からバッテリ組んでたキャッチャーとピッチング。エースと2粘性エースと横並びでしてました。2年生エースはボール遅いし細い体だし、頼りないイメージでした。その隣でビシビシ投げ込んでましたね。

けど1年生の時はやはり雑用で、試合の審判したり、ボール拾いしたい。けど私だけは審判とかでもすぎ交代できるようにしとけと監督から言われ、雑用はある程度しなくてもいいようになってました。ひいきされてたんでしょうね。昔からひいきされる側の人間でした。

練習でバッティングピッチャーをよくさせられましたが、当時のチームの4番相手に抑えたり、2年生の主砲によく対決を挑まれてました。2年生相手には負けなかったですね。チームの4番の人が打てなかったとき「今日は調子悪いねん」って言われたとき「4番は調子悪くても打つもんじゃないですか?」と言いました。4番の人がヤンキーの人にこんな事言われたといいヤンキーの人が「俺そんなん言われたボコボコにするけどな」と言いビビッてましたが、言ったのが私だと分かると「お前なら仕方ないな。言うのは分かる」と言われましたね。

で3年生が引退して1.2年生の新チームになりある試合で2年生主体のチーム構成でいつもの通り1年生は外野で「今日の審判とかどうする?」って相談してたら監督から私が呼ばれ、「今日お前が投げろ」と言われ背番号のないユニフォームでピッチング練習して7番投手で出場。これが私の中学唯一の出場です。2年生の先輩に囲まれた中試合。その時調子が悪く、ファーボール連発。いつもランナー背負ってました。振りかぶって投げるとストライクが入らないので3回くらいからずっとセットポジションで投げました。それでも調子は向上せずおかしいなおかしいなと思い投球。バッティングではレフトオーバーのスリーベースヒットを打ちましたよ。試合は7-0で勝ったと思います。試合後スコアつけてた先輩が「お前ヒット打たれてへんやん」といい。まさかの初登板ノーヒットノーラン。上級生相手に。

でなぜ当日急に投げることになったかというと2年生エースが私の投球見て自信を無くしたと。で私が投げることになったそうです。

もうすぐ公式戦だったので憧れの背番号1.チームのエースを背負えると思ってました

けど運命はいたずらをします。いたずらという言葉では済まないですけどね。1996年10月11日。日付は忘れもしません。今から25年前です。

ある日の練習中。いつも通り練習を終えてグラウンドに黙とうして思って立ち上がろうとした際に左足に力が入らず立ち上がれず空しく崩れ落ちるだけでした。何度も何度も立ち上がろうとしましたができず、見かねた先輩が寝とけと。はじめふざけてるんやろうと思ってたそうですが、私のゆがんだ顔を見てこれはダメだと先生を呼びに。その時顧問の先生は休みで出直の先生がきて、すぐに救急車呼べと。ユニフォームのまま救急車で病院に運ばれ、全身くまなく検査され、心電図・血圧調べても異常はなく、医者も当初はひきつけやろうとみてました。けどCT・MRI、造影剤の検査で脳の一番大きな血管が詰まってると分かり、その血栓をつついて通そうとしたのですが通らず、入院。結局ひきつけではなく脳こうそくでした。医者も13歳で脳こうそくなんてあるんか?と言ってましたが検査の結果が脳こうそくだったので、脳こうそくだと。検査はずっとしてました

一番大きな血管が詰まっていて、「家族には一生車いすも覚悟しておいてください」と告げられました。13歳だったので小児科に入院だったのですが、私の大きな身体を見て脳外科に入院。

まず5日間の絶食。で血栓溶かすためと栄養剤のため24時間点滴。1日3本点滴してましたね。自力でトイレに行くこともできず、ずっと動けず母親が付きっ切りで看病。13歳というと反抗期ですが、私は反抗すると何にもできないので反抗期はなかったです。

脳も腫れてずっと頭痛ですし、左半身は全く動かない。寝たきり生活でした。ご飯食べるものベッドを起こして貰わないと食べれなかったですね。左腕はずっとダランとベットの横に。医者が定期的に来て動かしてっていうんですけど、頭で動けって命令しても「動かすってどういうこと」って感じでした。手を動かすって何だろうって感じでしたね

ご飯もずっと重湯。水のようなおかゆ。けど絶食後6日後に食べた重湯が人生で一番おいしいと思った食事です。空腹は最高の調味料だって言われますがその通りですね。おかゆって食べなかったっていうか苦手だったんですが、今では中華屋では好んで食べるようになりましたね

顔も歪んでいて左側からよだれがずっと出て、ベッドの左側にタオルひいてましたね、鏡見るのが嫌でしたね。歪んだ顔見るのが。ビートたけしさんがバイク事後後テレビで会見した映像の顔。あれと同じ感じでした。というか右が正常で左の筋力が無くなって下がってるのだと。筋肉もなくなって、左肩なんて骨だけの状態でしたよ。悲惨でしたね

入院時に慎重体重図ったんですが、5日の絶食だったはずが、途中で身長図ったら伸びてました。医者から「この子は何を栄養としてるんや」と笑ってましたね。栄養剤の点滴だけでした。ちなみに小学校6年生時身長168センチありました。

寝たきり生活は1か月に及びました。途中、夜中にパッと目が覚めて”左腕動く”と思い、左腕動かしたらダラっとしてた腕をひょいと挙げたら挙がったんです。不思議な感覚でしたね。

脳こうそくの場合運動神経が死んで、その死んだ神経というのは生き返らないので、使ってない神経に新しい動き覚えさせて動かすしかないと。その行動をリハビリというんです。

夜中に突然動くと思ったのは急に神経がつながって動くことがあるそうです。その現象を体感したんですね。

1か月を迎える前にリハビリは開始してたんですが、はじめは立つ感覚を覚えるとかで機械で立たされるだけでした。で立つために太ももの筋肉を鍛えるとベッドに座って足を上げ下げするのが訓練でした。立つのにはコツがあってお辞儀する感じで立ち上がるんです。だから私の頭の中では立ち上がるのはお辞儀する行為の延長なんです。

移動には車いすを使ってました。右手でこいで、右足で方向を調整するんです。私はすぐできたんですが、これって普通は難しくってできないんですね。他の入院患者がどうやってするの?って聞かれたので教えたら全然できませんでした。車いすでガンガン移動する私を見て”病院の暴走車”と言われてました

1か月立った時初めて自力で立てるようになりました。(つかまり立ちですが)その時ものすごくうれしくて父親に見せようとしました。母親は毎日そばにいてくれてましたが、父親は仕事終わり7時くらいに病室に来てました。

で私は父親を喜ばせようと、父親が来る6時ごろから立って待ってました。母親から座ったらいいのにとずっと言われましたが、聞かず立ち続けて待ちました。で父親が来て立った私を見せました。父親の顔は嬉しそうだったと思います。立てるようになったんかと言ってましたね。

親を心配させたくない一心でした。喜ばせたい。その思いで起こした行動でしたね。今でも忘れません。

1か月で立てた後歩くリハビリがスタート。変な癖がつくからとリハビリの先生は慎重だったのですが、歩けることがうれしくて先生を無視して歩いてました。病室の周り一周したりとかで、まぁずっと歩いてましたね。で変な癖ついてしまって、左足は真っすぐ前に出すことができず、一旦横に広がってから前に出るんです。けど歩けるのは本当に嬉しかったですね。当たり前のことが当たり前にできるということが凄いと実感しました。一方進まないのが手のリハビリ。一向に動きません。開こうとする意識はあるのですが動かないんです。開こうとするのではなく力を抜くんだと教えられ、少しは開くようになっただけでしたね。右手で大概のことできてしまうので。幸い右利きでしたし。で進まないリハビリに見かねた両親と周りが右手縛って生活させたらといい。、右手縛られて生活してみました。とにかく大変でした。何にもできなかったです。ご飯も食べれなかったし。

右手縛る生活はすぐ終わらせてもらったんですが、それくらいのことしないと元に戻ることはできません。まぁ戻りませんでしたけど

歩けるようになって、自分で階段昇り降りしたり、色々してましたね。おかげで歩く方はリハビリがどんどん進んでました。ってかリハビリのメニューは年寄用しかなくて、負荷一番大きくしても、汗一つかかず終えてしまってたんです。野球でむちゃくちゃ練習してた私にとっちゃ、何にもしんどくなかったです。リハビリの先生長兄のお嫁さんの高校時代の先輩だったんです。不思議な縁ですね

1か月入院してリハビリに特化するため治療の入院からリハビリの入院に転院。毎日リハビリするようになり、日常生活、学校に戻るように医者にすすめられました

ここで問題が。医者は入院しててもよくならないので学校にいって友達と会う方がいいと言って学校に戻ることをすすめました。が学校側は拒否。理由として「転んだらどうするのか」「友達と喧嘩したら」「学校に手すりがない」などつまらない理由でした。で医者が学校側を説得するから病院に呼んでくれと、学校側の代表と両親と医者で話し合いがされ、あくまで責任取りたくない学校側、で母親が通学に付き添うという条件で学校に復帰が決定。入院は結局合計2か月でした。理学療法はもうやることなりなく手のリハビリ優先するため作業療法にもかかるように。作業療法は大変でしたね。来る日も来る日も紐結んだり、板に釘刺したり、オセロを左手だけでしたりと。動かない左手にイライラしつつ、やってましたね。

退院後3日ほど家にいて、学校に復帰しましたが、2か月のうち授業は進んでて分からず、授業の50分も集中力が持たず、初めは午前中のみの通学でした。先生もどう扱っていいか分からない状況で友達も距離置かれました..

授業がきつかったですね。歴史は元々好きだったので自分で勉強できたんですけど他は全滅。特に数学。入院前は1次方程式だったのが戻ると2時方程式に、円周も3.14からπに。何にも分からない私に先生方は無視。図形の問題だったのですが、定規が使えない私はそのまま線を引くと定規を使うようにと言われましたよ。片手でどうやって使うん?って感じでした。教師が大嫌いになりました。けどいい先生も中にはいて国語の先生は放課後残って教わってなかった部分を教えてくれました。国語と歴史は今でも好きで得意です。入院前クラスで10番以内に入ってた成績も入院後は5教科で200点取れなくなりました。体育もできず全部見学。あれだけ大好き野球もできなくなり、見るのもいやになってました。見ると動いてた頃の自分を思い出して辛かったです。毎日毎日「どうしてこうなったのか」と自問自答。自殺ってのを考えたのも1回や2回じゃありません。友達との差も大きく、もう戻れないという絶望の日々でした。学校行っても友達からはいじめられ、先生も無視。人生のどん底でしたね。本当に。栄光を知った男が全て失った。通知簿貰ったんですが白紙でしたよ。見たことあります?白紙の通知簿。つけようがないということで真っ白。三学期は普通に行ってましたが全部3。理由は分かりますよね。教師はとにかく責任取らないんです。公務員というものが大嫌いになった。今でもこの時の経験で嫌いです。

親の付き添いがなくても通えるようになって授業もフルに受けれるようになっても学校は辛かったです。ずっと辛い3年間でしたね。成績がない以上公立校には行けず自力で勉強するしかありませんでした。兄の幼馴染に家庭教師してもらい、勉強しました。昔は塾に通ってたのですが入院で通うことができなくなったのでやめました。家庭教師で勉強して、英語が20点だったのが最終的に60点までとれるようになりました。それでも高校進学は厳しいといわれましたが、何とか行けるレベルまで到達し、行くと決意。合格をすると、校長先生じきじきに高校に君のこと説明すると言ってくれ、卒業の際は校長室まで招いてくれ「本当に頑張ったな。高校には説明しといたから安心していきなさい」と言ってくれました。校長先生はいい人でした。学年主任。1年の時の担任、野球部の顧問の先生が悪い人でしたね。校長先生は私が卒業と共に他所の学校に転校していきました。守ってくれたいい人がルール違反だと飛ばされる、世の不条理を感じましたね。

中学時代は人生のどん底です。これ以上の辛さはないと思ってます。もっとたくさんいろんなことあったんですが抜粋して書きました。

次回、人生のどん底だった男が高校でどうなるか、お楽しみに

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