拒絶反応
いつも、人と距離が近くなって
必ずある一定の距離や時期が過ぎると発病する。
親密になるからこそ
距離が近くなるからこそ
気の許し方が解らない。
ここからここまで気を許せば
今度はこっちも、あれも、これもと
きりがなくなってくる。
そのうち、自分と人との境界線が曖昧になって
わざわざ広げる必要の無い事まで
広げようとし過ぎてしまう。
ある種の拒絶反応の様なもので
良くない事と解っているけど
試し行為なんだと思う。
こんな馬鹿げた事は辟易しているのに。
キッパリ潔くいたい。
現実の自分は理想とは程遠く
情けなくうだうだと頭を垂れるのだ。
全く悪癖にも程が有る。
自分でも「またか」と自覚している。
相手が逃げるを選択するのか
逃げないを選択するのか
そんな事は拘る事じゃないと解っていても
義父のあの姿が、あの瞬間が
何度でも目の前に広がって見えてしまって
あの日の自分を繰り返してしまう。
我儘を言ったら
弱音を吐いたら
弱みを見せたら
気を許したら
頼りたくて泣きついたら
彼らは背を向けて離れていったのだから。
「また」その瞬間を繰り返す事には
心の中でかなりの抵抗があって、
自分なりの自己防衛なのだとも解ってはいる。
ただ、もうこれらを辞めたいし
必要が無い事を受け入れて納得したい。
1本の木が立っているとして。
その木に完全にもたれ掛かる事を
自分の中では許したくない。
聞こえの良い言い方をすれば
分かち合うというのかもしれない
現実的に言えば
共依存とか
都合良く他力本願に背中を預ける行為とも。
あくまで自立していたい。
自分で対処出来るし、出来る範囲の事を残して
今まで通り自分で対処していきたい。
それを自分以外に触らせる事に
とてつもない抵抗と困惑を感じる。
ここの木とそっちの木が立っているのは
それぞれの根っこが張っているからであって
1本の合流に必ずしもする必要は無いと思う。
少し言い方を変えよう。
私には別々の方が良い、が近い。
自分でも面倒で厄介だなぁと思っている。
この拒絶反応は誰であっても必ずあって
一定の距離より親密になる時現れるもので
今あけすけに話せる友達皆に対して
大体やらかしてきている。
机を叩いて口論出来る女友達は
私の事を素直に怖いと言った。
時折見えるどす黒い何かが怖いのだと。
私からしたら逆に友達の眩しい光が怖かった。
一度もたれてしまうと
その気の緩め方を知ってしまうし
その気の緩め方に慣れてしまうと
自分で立って踏んばっていた事が揺らいでしまう気がしてとても恐ろしい。
元のひとりに戻った時、同じ立ち方が出来なくなるのではないかと不安で仕方がなくなる。
失うのはもう充分だし
やっとせっかく自分で立っている事に慣れてきたのだ。
だから人とは必ず一定の距離を保っていたい。
わざわざ開けなくていい引き出しを
自分の部屋に持っていたくて
それはわざわざ自分から開ける必要が無いのだと自分自身に認識して欲しい。
そして私がしゃがみこんだら、一定の離れた場所から手を出さずただ見守って待っていて欲しい。
近付いて手を貸さなくていいから
また自分で立ち上がるまでただ待っていて欲しいのだ。
例え遅くてもやり方が下手くそでも
自分で立ち上がれるのだから。
とても解りやすい悪癖で笑ってしまう。
ソウルイーターのクロナがマカに示した拒絶反応の様に、BLACK LAGOONならロックが入ったばかりのレヴィだ。
あっち側の人間のロックに拒絶反応を起こすレヴィは読んでいてなんて解りやすいんだろうと思ったし今でも思う。
ダッチのクール・アズ・キューク(沈着冷静)だよっていう言葉にはすこぶる安心感を感じる。
だがその後のロックの逃げず、謝らず、
幻想主義的だが「ロビンフッドが居ないならロビンフッドになれば良い。」というガッツには痺れた。
勿論、人間にあっち側もこっち側も何も無いのだけど。
認めるしか無いのがこの悪癖で
努力はしているツモリだが全くの無に帰す事は今は残念ながら出来ない。
試みてはいるけどゼロには出来ない。
それを認めて、正直に言うしか方法は無くて
今出来る精一杯は先に伝える事だけだ。
昔の様な露骨な試し行為は出来るだけ減らす努力をしていて、確実に絶対減っている!と断言は出来ないけど…。
減らせている事を祈る様な気持ちでいる。
これから先は必要が無い過去のものは
出来るだけ手放していきたい。
それが出来ていたら嬉しい。
まだ未熟な所は沢山あるけれど、今後も
努力は続けていって自分の事を知っていきたい。
衝動的な事に関しては、精一杯踏んばって
踏みとどまっていられる様引き続き精進したい。
破壊衝動やノイローゼに近いものが渦巻く時は必ず尾崎豊の「太陽の破片」が聴きたくなる。
私が一番好きな曲。
次に「僕が僕であるために」この2曲は死ぬ程聴いたし今も時折聴いています。