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ぷろおごの今日のつぶやきから“僕の信仰について”考えてみた

今日プロ奢ラレヤー@taichinakaj が
Twitterでこんなことを呟いていた

https://twitter.com/taichinakaj/status/1321692007916470273?s=20

140字でもnoteでもいつも面白いありがとう。

ところで僕の今月の目標がnoteデビューすることと
プロ奢サロンに顔を出してみるだったけど、
もう後者はあきらめた。

でもなんとかプロ奢のこのツイートから

自分にとっての信仰とはについて考えて
noteにまとめて目標の半分だけでも達成してみたいと思います。

あなたの信仰はどこに?
例えばお金の信仰について

プロ奢が書いていた科学や宗教以外には
どんな信仰があるだろうか?

親が言うから◯◯する
学校で習ったから◯◯は正しい
世間的には◯◯だ
自然なものだけで添加物が入っていないから体に良い
この辺りも信仰になるのかな

僕が真っ先に思い付いたのは「お金」だった。
僕もつい最近まで信仰していた。

ちょっと前に話題になった
老後に貯蓄が2000万円必要問題
これで例えるならば
「老後にお金があれば安心できる」
「逆にお金がなければ野垂れ死ぬ」
「お金があれば問題が解決できる」
これはお金の信仰からきてるんじゃないかな?

でもはたしてどうだろうか?

老後、例えば50年後
どんな社会になっているか誰もわからない。

今70代の人々が現代人の生活を
どれだけ思い描けていただろう?

現代はコンビニで美味しいお弁当がいつでも安く買えて、
機能的な衣服がファストファッションで安くいつでも買える。
50年前と比較すると全体的に社会は底上げされ
高品質なサービスが低価格で受けれるようになった。

そして50年前は野垂れ死ぬしかなかった
病気や怪我になっても現代なら
治療や手術で生きることができる社会になった。

いま語られている不安な老後というのは
今の社会をそのまま50年後に持ってきて
語られているように感じる
しかし50年後は今の社会ではない。
老後を語るには50年後の社会として語られるべきで
そしてそれは誰も知らない50年後なので
老後にお金が2000万必要ですと言われて
「はいそうですね。」
となるのはお金の信仰あってのものだと思う。

もしかしたら僕らの老後は
お金に価値がなくなっているかも知れないし、
逆に2000万円程度では少な過ぎるかも知れない。

これからくる未来の問題を
お金を沢山持つだけで解決できるだろうか?

僕は「お金が怖い」と思っていた。

お金を使うこと、お金が減ること、
お金を稼げなくなること、老後にお金を残せないことが怖い。

これは
「お金のことは詳しくは分からないけど、
なんかお金があればなんでも解決出来るし偉いっぽいぞ」

というお金の信仰から来ているんだと思う。

現代社会はこのお金の信仰を利用して
会社で人々を労働させたり
物を沢山作って、沢山売って、買ってと
人々と経済を操作し
資本主義社会をぶん回して
より良い世界にしている。

凄いぞ信仰!!

しかし一方でお金の信仰を利用され
生活に不要なお金を手に入れようと過度な労働をして鬱になったり、または貧しい者が得られもしないエサとしてお金のある煌びやかな生活をチラつかされ情報商材屋から価値のない高額な商品を借金までして騙され買ってしまうなど個人を不幸にしてしまうこともある。

怖いな信仰…。

正しい信仰とは?

僕はこういった信仰に正しいも間違いもないように思う。
信仰だろうが何だろうが自分の人生を豊かにするならば
それは人がどうこう言えるものじゃないと僕は思う。
信仰が手段で、人生を豊かにするという目的を果たせたら良くね?

例えば科学がまだ活発ではなく、主に宗教が信仰されていた時代
人々が崇拝していた一つに「太陽」があった。
これは「なんか説明つかんけどいつも我々に影響してくる存在」に対して
宗教で説明するしかなかったから崇拝していたのだと思う。

現代では科学を用いて地球からの距離だったり、太陽の大きさや質量など色々と説明がつくようになった。
科学で説明できるようになったから宗教にとって代わったし、
宗教として崇拝もされなくなった。
そもそも何故に人々が太陽を説明したかったのかは
「人は自分の理解できないものに対して恐怖したり嫌悪する」からである。
太陽がもし明日いなくなり、ずっと夜だったらどうしよう?
太陽が大きな力で自分たちを陽で焼いたらどうしよう?
こんな心配をしていたかもしれない。
太陽が毎日いつも通りに自分たちを照らしてくれるように当時の人たちは太陽に祈った。祈れば神は聞き入れてくれてくれると。
神として拝める行為つまりは信仰することが、科学がない中で自分たちが太陽を理解するのに1番容易な選択だったんだと思う。

そうやって当時の人々は宗教を信仰し、理解できないモノゴトを宗教で説明した。そして救われ、豊かな人生に繋げていたんじゃないだろうか。

僕の信仰とは

最後に僕の信仰はどこにあるか?
それはじぶん自身にある。
どういうことやねんと思われるだろうか?
あくまで僕が主体で何かを信じる。
科学も、宗教も、お金も、自然も、全てを自分が信じるから信じたい。
理解できないモノゴトは僕が信じるじぶんの判断で信じる。

これには自分でじぶんを深く理解するということが必要になってくる。
なぜならば「人は自分の理解できないものに対して恐怖したり嫌悪する」からである。
それがたとえ自分自身であろうとも、恐怖し嫌悪する。その状態での崇拝は盲信である。
それでは宗教が科学にとって変わったように、いつか信仰を続けることが出来なくなる。
自分でじぶんを説明することや、自分が何を信じたいのか、自分が何を信じて幸せで豊かな人生を送れるかを知る。大事!!

これは仏教に似たものを感じる。
仏教では修行により悟りを開いた釈迦が崇拝されている。
ざっくりと僕の解釈だと悟りとはまずは瞑想や荒業や苦行を用いて死に近づき、無意識下の自我を知ることから始まっているようだ。
要するに自分の中のじぶんを深く知り理解することを信じて修行していくと、悟ってしまって周りから崇拝されるまでになったよーじゃない?
違うか…。

先にも書いたけど、信仰のご利用には自分の人生を豊かにする目的がある。「じぶんが信じる科学を信じる」や「じぶんが信じる〇〇を信じる」をやる。そうすることで僕はじぶんを信仰し救われ、豊かな人生に繋げていけるんだ。

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