ポジティブな破壊衝動
ここ数年、言語化することに対する恐怖心が強まってきている。
それこそ改めて言語化するまでも無いが、言葉の表す意味には明確な定義がある。だから、言葉を使ってしまった時点で、それはもう不自由の檻に自ら飛び込むのと等しいのである。
そういうわけでnoteを始めてみる。
民衆)全然理屈が通ってないじゃないか!
そうだね。
民衆)それっぽいこと言いたかっただけじゃないか!
そうだね。
要は小さな破壊衝動です。
Tier表で言ったらSSが犯罪、Bが個人情報ダダ漏れのSNSアカウントで他人とレスバをすること、これはFランク。
私の全部を言語化して、私の全てが既存の意味に当てはめられていって、それでもなお揺らがない私の根幹。
それがあったら嬉しい。
自我が強すぎて眠れないときすらある。他人のつくった有り物の言葉に自分を当てはめていけば、自我も薄まるんじゃないかしら。それはとっても恐ろしいけれど、興味がある。
自傷的な破壊衝動ではない。好奇心からくる破壊衝動。
それに完全に飲み込まれてしまったら、私は何かから抜け出せるだろうか。何かわからないけれど、私を押さえつけている何かがあるのなら、ソイツを殺せるだろうか。
衝動を抑えるのが理性であり社会性なのだとしたら、全部かなぐり捨ててしまいたいと思うのは、野性的な、獣のようなものなのかもしれない。
人一倍テキトーに生きているはずなのに、ずっと何か息苦しい。それならいっそ、それら全部を言葉にして、可視化して、私から可能な限り概念を消し去ってしまえば、最後に残った言葉にできないモヤモヤがこのダンジョンを支配するラスボスなんだとわかるのではないか。
と、いうほど深く考えて書き始めたわけではなかったが、ひとまずいろいろやっていこうと思う。
おまけコーナー:「言葉」への愚痴
ところで、もはや人間と言葉の主従関係は逆転しているという話、もとい愚痴について書かせてください。ついでに。
私はたくさんの人の感性を知りたいし、私の感性も共有したい。
でも、それには言葉が必要不可欠。
それがなんかムカつく。
言葉って人間のために生まれた後天的なものなのに、なんで言葉が人間を従わせてるんだ。
あまり調子に乗るなよ。
そういう気持ちがある。
そうは言ってもしゃあないんですが、時々そういうぶつけようのない、怒りとも呼べない怒りが湧いてくる。
とりあえず、これからは極力丁寧に言葉を出力していけたらいいなと思っています。
それが当面の目標。