面白が確定した行動しか選べない

有名な、あるいは自分の知っている人物の文章しか読めない。長文だと特に。

当たり前だけど、知らない人が書いた一万文字と湊かなえが書いた一万文字だったら、湊かなえの方読むし。

それが実際読んだことない作家だったとしても、世間から評判の良い本なら読んでみようとも思うわけで。
というか、そもそも書籍化されている時点である程度は面白いことが保証されている。

そういう安心感のもと、私は本を読んでいる。

もし、たまたま読み始めた文章が本気の素人の文章で、それが最後まで一ミリも自分に刺さることなく、ただただ時間だけが過ぎていってしまったら。
そういう経験もいらないとは言わないけれど、やっぱりちょっとだけ後悔する。

ミリしらコンテンツに触れるときの軽い緊張感は、もし時間が無駄になってしまったらどうしようという恐れから来ているんだろう。

そして、わたしの出不精はこれに通ずる。

私は用がなければ滅多に外に出ない。
自由時間は基本的に家でネットを見て過ごす。

これには確かに体力的な問題もあるのだけれど、ほとんどは気力の問題。

ようは、重い腰を上げて遊びに行った遊園地がクソつまんなかったらと思うと、一定の面白が保証されている「ネットサーフィン」という行動を選択してしまうのだ。

そうして知らないことへの挑戦から逃げ続けると、どんどんと心の体力が無くなっていって、より新しいことをする気力が失われていく。

友だちに誘われたら遊園地にもノリノリで行くけれど、それは別に遊園地に行きたいからノリノリなわけじゃない。お前と遊ぶという行為に「面白」が確定しているから、だからノリノリなんだよ。と思う。

結局、私を助けてくれるのはこういう素敵な人たちなのかもしれない。
周りの人間が、私にいろんなことを教えてくれて、私はその人たちと関わるという面白のために、知らない世界にも飛び込んでみる。

なんだか美しすぎる結論になってしまった。

どうにも、周囲の人間のことが好きすぎる。
他でもないこの私が好きになったんだから、素敵に決まっているのだけど。

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