絶景は晴れの日にしか見えない
横須賀で開かれている「エドワード・ゴーリーを巡る旅」に行ってきた。
私は行き先を全く調べないので、着いたときにようやく、そこが一度言ったことのある場所だとわかった。海沿いに建ち、中が透けて見える壁で覆われた美しい美術館。屋上にも出られる。
前回行った時は美しいと感動した覚えがあるのだが、今回あまり感動を覚えなかったのは曇っていたからなんだろう。
あらゆるものは晴れているとき美しく、曇っていると少し輝きを失うように思う。
先日有名な庭園に行ったときも、危険なくらいの晴天に迎えられた草木や池は、もはや比喩ではなく輝いていた。どこでカメラを構えてもプロが撮ったみたいに美しかった。
翌日もまた別の庭園に赴いたのだが、その日はあいにくの雨だった。歩きながら、楽しいけれど美しさで言えば昨日のほうが…などと考えていた。失礼なものだ。
歴史的建造物の前に立つ説明文の書かれた看板を読み、見学施設に入ってスタッフのフレンドリーなおじいさんから説明を受ける。それに対し、出来るだけ興味深そうな声色で相槌を打つ。ああ〜、旅先だ〜〜〜。
かなり満足度は高かった。こういう「旅行」って感じの時間、楽しい〜〜〜〜。
でも、景色自体にはあまり美しさを感じなかった。
説明を受けた後に見る建造物は理解が深まっているから楽しいし、ここにこういう塀を建てたのねえとか、この木はどこどこから持ってきたんだ、とか、景色を通して見える歴史に対しての感動はあったが、単純な「綺麗」の感情はあまりわかない。
だからといって別に不満はなく、十分に満喫してさて帰ろうと出口に向かっていたとき。
突然空がものすごい勢いで晴れていった。今まで引きこもっていた太陽が思いきり部屋から出てきて、思わず日傘を取り出すほどだった。ふすまを勢いよく開けたときの「スパァンッ!」という音が聞こえた気がした。
出口は坂を下った先にあり、下を見下ろすと立派な庭が見える。それが、あまりにも美しかった。
そして、やはり天気次第なのだろうかと、私の浅い感性にげんなりもした。
最後に美しい景色が見れて良かった。嬉しかった。
太陽はすぐに引っ込んで、また薄暗くなった道を、ホテルまで一人で歩いた。
美しさとは天気が作り出すのだろうか。
仄暗い雰囲気の中に宿る美しさを、私は咄嗟に感知することが出来ない。
ギラギラとした光に照らされ、めいいっぱいに明度を上げた面の隣に落ちる、青空の反射で青みがかった濃い影。視界の端で微かに光ったような気がしたのは他人の家の表札で、コンクリートに刻まれたフェンスの影や打ち水をしたであろう色の変わった石畳を私は踏みつけていく。
呼吸ないものの「生きている」ような息遣いだけが、私の脳を揺らす。
静かに、力強く主張する立体物に私の目は惹きつけられるらしい。
曇ってしまうと物はとたんに主張を失う。コントラストが弱まり、背景が溶け出して平面的になる。
そのとき、私はそれら背景を「ある」と認識できない。少なくとも無意識には。
単純なんだと思う。ただ単に強い色に惹かれるという、動物的な感性なんだと。
本当は、どんな場所も、どんな天気も、その瞬間にしかない輝きを放っているはず。
見る人によって、輝いている瞬間は違うはず。
あらゆる感性は高尚でも低俗でもなく、正しい美なんてものは無いのだけど。
でも、美しいと思えるものは多いほうが嬉しいからね。
もっといろんな物を見て、いろんな人を知って、あらゆるものに内在する概念に対して少しでも美しさを見出だせたら、きっと今より楽しいだろうな。