「真実はいつも1つ」なのか
(某有名探偵に疑問を呈するようなタイトルになってしまったが、映画は小さい時からほぼ見ている好きな作品です。笑)
『ちょっと立ち止まって』
小学生?の時か、国語の授業で呼んだ『ちょっと立ち止まって』がやけに印象に残っている。
「ルビンの壺」という1つの絵に2つのものが描かれているものから、別の視点を持てば物事は変わって見える、何事も「ちょっと立ち止まってみよう」といった内容だったと思う。
他にも、お婆さんの横顔にも、若い女性にも見える絵が紹介されていた。
ただ、この「視点を変える」を自覚してできる人はその時点で相当優れている。
この絵でも、「別の見方があるよ」と言われるから、必死に探して見つけることができる。最初からノーヒントで複数の視点を発見できる人は凄まじい。
前提として、「別の見方がある」ということを知っているから、またこの絵にはそういうトリックが施されているから探すことができるのだ。
なんのトリックもない絵を見せられて、1つの絵から複数のものを読み取るのは相当難しい。いや、そもそもそんなものは妄想解釈でしかない。
自分の視点で見てしまうから。
映画『羅生門』
大学の時、黒澤明監督の『羅生門』という映画を取り扱った授業があった。
タイトルから想像できるように、芥川龍之介の『羅生門』がタイトルの元にはなっているが、ストーリー自体の原作は『藪の中』という別の作品だ。
映画のすべてを見たわけではないが、物語は以下のようなものだったと記憶している。
平安時代、1人の武士が殺害された。
目撃者や証言者は多数。しかし、誰一人として証言や自白がかみ合わず、真相がわからない。皆がそれぞれの立場(商人、妻の母、盗人…など)で証言をし、話を聞くほどに、「本当は何が起きていたのか」が分からなくなる。
ここで、私は「誰かが嘘をついている」という視点で「真実」は何かを探していた。しかし、この授業では、「真実は1つではない」という視点が紹介された。
それぞれの立場で見ている事実が、それぞれにとっての真実なのだ。
つまり誰も嘘をついていない、全員が「自分が見た真実」を語っているということだ。
我々は無意識のうちに、自分の社会的な立場や生い立ち、文化に影響を受けながら、色眼鏡で世の中を見ている。それが真実であると思い込んでいる。
本当に俯瞰した立場など存在しないのではないかという問題だ。
『羅生門』で『ちょっと立ち止まって』
映画『羅生門』で、結局真相は「藪の中」へと消えていく。それは、皆が自分の視点を外せないからである。見方を変えるというのは、我々が思っている以上に難易度が高い。
『ちょっと立ち止まって』に出てくるだまし絵のように、あらかじめ「別の視点があるよ」「トリックがあるよ」とは教えてもらえないために、別の視点を探す作業自体に取り掛かれないからだ。
そこで、立ち止まれる人は、自分の中に内在化している「他者」を持った人だ。いわば、他人を自分の中で飼っている。
もしかしたら自分が見ている現実は他人が見ているものとは違うかもしれないと知っている人だ。
誰かと同じ景色を見ても、その同じ景色が本当に同じように見えているかの証明はできない(今後脳内の映像を鮮明に可視化できる技術が進めば、話は変わるのかもしれないが)。
であれば、自分の中に「他者」を飼うことは、1つの事実をより複数の真実と捉えられることとも言い換えられる。
そんな賢明さを身に着けたいと思う。
「他者」を飼う
どうすればよいか。「他者」を飼うわけであるから、「他者」の世話をしなければならない。ほったらかしでは自分の中の「他者」は何も意見しなくなる。
勉強や読書、好奇心こそが、飼っている「他者」への栄養分であり、食事なのだと思う。絶えず栄養を与え続けなければならない。
やはり学びは連続している。
今、悩み事で頭を巡らせた時に、『ちょっと立ち止まって』や『羅生門』を思い出したように、小学校から大学まで学んだことは確実に生きていて、自分の中の「他者」の養分になっているのだと思う。
(かといって悩み事が解決するわけでもないのだが)
「人は一人では生きていけない」とはよく言うが、「人は学びなしには生きていけない」ともとれるのではないか。
ちょっとした思いつき