とあるアニメ第1話に出てきたマイノリティの扱いについて

問題

 待ちに待って、物凄く期待して、それはもう楽しく面白く、そして感動するような作品になるだろうと信じていた。
 そうなるはずだった作品の、たった一つの表現で、自分はその作品を純粋に楽しむことができなくなってしまったので、整理の意味も込めて記すことにする。

 該当のアニメの説明を簡単にすると、田舎からでてきた悩みを抱えた主人公の少女(以下A)が、バンドを諦めようとしている少女(以下B)と出会い、そこから始まるバンドの物語だ。第1話はまさにその出会いということになる。

 そこで、たった一つ、自分が憤りをこらえきれないシーンがあった。それが、セクシャルマイノリティを一瞬使った展開のシーンだ。以下、問題のシーンとする。

問題のシーンの補足

 その問題のシーンについて、少し補足する。
 該当のアニメは、放送が始まる以前から様々な情報が公開されており、そのなかにはキャラクター紹介もあった。問題のシーンは、主人公Aのキャラクター紹介PVの冒頭にくるようなシーンだった。そのPV内ではキャラの見た目や動きだけで物語の言及もなかった。けれど、とても印象付けるような、まさに顔となるシーンなわけだ。
 放送後、3Dの表現凄いでしょって説明している人たちもそのシーンを持ち上げていた。さらに、海外のポストが1万を超えるいいねでバズっていて、そこにもこの問題のシーンが使われていた。(アニメの静止画や動画を何も考えずにXに載せている人間すら嫌いというか、平然と著作権侵害をできてしまう感覚が全くもって理解できないのだけれどそれはまた別のお話)それくらい影響力のあるシーンだった。

私の事情

 続けて、私個人の事前情報を伝えさせていただきたい。
 多少なりともセクシャルマイノリティ、ゲイの人たちと関りを持ってきた自分にとって、そばにいる人間だからこそ、気になって、気をかけてしまうことがある。それは、感情の負の揺らぎだ。
 日本は様々な人の関わり方が割と他の国に比べて日常の中に溶け込んでいる国だと思う。そんな中であっても、むしろ日本的ともいえるけれど、自分と、自分たちと違う人間を揶揄ったり排斥しようという赴きがある。同調圧力というとわかりやすいだろうか。そうなったときに、マイノリティな部分は大衆にとって笑いの種になることが往々にしてある。
それはうまくいけば強みに転ずることかもしれないが、それのせいで思い悩んで、辛くて、あまつさえ解放される選択肢を選ぶ人もいる。
 そういう現実を踏まえてこの問題のシーンを見たときに、私は陰鬱な気持ちになった。
 当事者本人たちにとって、もう散々言われてきたことで、されてきたことで、ある人は慣れ切って、ある人は諦めきって、またある人は悩みに悩んでいることなのだ。
 当事者たちは、周囲のからかったりする様子に対して受け流すように愛想笑いをする。それが処世術だからだ。それは先ほど書いたような慣れか、諦めか、転じてネタにしていればまだいいけれど、そうではなく、どこかでなにかを抱えたままだったり、悩んでいたりするならば、これは実に酷い。
 当事者に触れていくと、どうしても気にかけてしまう。迷子の子どものように、雨に濡れた犬のように、弱っているのに大丈夫と頑張ってしまう人のように、見ただけで分かるような感情の負の揺らぎを、気をかけないなんてできるわけない。

本題

 そしてようやく本題だ。
 そのシーンは、別に普通であれば気にする必要もない、一瞬のシーンだ。

 主人公Aが、貧乏暮らしでルームシェアをしているBの家に行く。するとそこには、なんと男の人がいる。Aは彼氏だなんだと驚くわけだが、それに対してBがその男の人のことをこう説明するのだ。

「だが恋愛対象は男だ」と。

 つまり、その男の人はゲイだから大丈夫だと。
 この問題のシーンは、時間にすれば30秒程度で、バンドの苦しいお金事情を表すシーンだ。しかしながら、Aのリアクションは実に笑いを誘うようなコミカルな動きで、メタ的に言えばネタ扱いするシーンかつ主人公Aのキャラクター紹介PVに堂々と採用されるような、象徴的でインパクトの強いシーンなのだ。

 それらの要因が合わさったときに、私は見逃すことができなかった。

 この問題のシーン、バンドの苦しいお金事情を表現するだけであれば、ゲイの登場は全く必要ない。むしろ本編に全く関係ない社会的にセンシティブな内容をネタにするようなシーンは邪魔でノイズでしかない。
 であれば、あえてゲイを出すことで、キャラの純潔性を示したかったのだろうか。対比的に百合の要素を表したかったのだろうか。それとも、笑わせたかったのだろうか。そういった要素でこのアニメのコンセプトを穢すくらいなら、多少爛れた関係のほうが、らしくてマシだ。大人の事情なんてクソくらえだ
 セクシャルなことは他のものに比喩しても、固有のもの過ぎて微妙になってしまうけれど、どうしても気になったので書く。ゲイだから大丈夫みたいな言い方は、例えば「既婚者だし大丈夫だよ!」みたいな無責任な感覚にしか聞こえないし、フィクションであるならなおさら女性だけのルームシェアでも全然よかった。だが、あえてこういう同居人を選んで、シナリオライターはこういう表現をした。それ自体に無邪気な悪意がある。本人には自覚が無いかもしれない。だが、あえて悪意があると言おう。
 どうしたってマイノリティな特徴を弱点として持つものは、社会で生きにくさを感じる。それが三大欲求ともいわれるセクシャルにおけるマイノリティであればなおさらだ。

 ここでさらに、このアニメのコンセプトについてだ。
 じゃあ、この登場人物たちの一番ど真ん中にあって、物語の象徴たるもの、コンセプトはなんだ。それは、生きにくさをバンドにぶち込むことだ。それなのに、他人の生きにくさをまるでネタのように消費するのは、物語として矛盾してないか?物語としての「生きにくさを全部ぶちこんで、抗って、藻掻いて、自分自身を証明していくバンドの物語」だとして、それがメタ的な視点とはいえ、他人の生きにくさを馬鹿にするような表現をしてしまうのは、そこに登場するキャラクターたちや、コンセプトのバンドそのもの自体を貶める。
 誤解の内容に補足するが、登場するキャラたちが悪いわけではない。この問題のシーンで、ネタ的にゲイを扱うシナリオと、それをPVに採用したりして象徴化することが問題なのだ。
 もし、このあとのストーリーで対バンとしてゲイの人が登場してきて、「ああ、こういう生きにくさを抱えている人もいるんだ」って気づかされたりして、改めて自分を見つめなおすキッカケになったりするというのなら、振り返って良い布石だったなと思うけれど、きっとそんなことは無いだろう。

後書き

 この問題のシーンで感じたことは、自分が生きてきた中で出会ってきた人たちとの、全体から見ればごくわずかな経験にしか過ぎないものかもしれない。それでも、自分が大切に思う人たちをこんな風に扱われることを、そしてそのどうしようもないいじめのような構造でネタにすることを、どうしても見逃すことができなかった。
 笑ってごまかしたままでもよかった。それが処世術というもので、気にしすぎだなんて言われることかもしれない。Not for me。自分に合わなかったんだと諦めても良かったかもしれない。
 それでも、自分自身のなかにある憤りは収まることが無かった。それは自分自身の正しさと合わない憤りと、自分の周りの人たちを揶揄って笑いものにしたことに対する憤りと、待ち遠しく自分が期待して信じていた作品を貶めるような表現をしたことに対する憤りの、全てでできているからだ。
 これを書いたところで何かが変わるわけじゃないし、自分自身の気持ちの整理にしかならないかもしれないけれど、それでもこの怒りだって本物で、決して馬鹿にしてほしいものではない。
 本当ならこんな文章が生まれてしまうような状況になりたくなかった。本当に余計なことで、こういう風に何かに思い悩むことなく純粋にその作品を楽しみたかった。
 ひょっとすると、純粋に楽しむことができなくなった悲しみが、この問題のシーンに相対したときの感情の奥底にあるのかもしれない。
 ここまで書いて整理して、客観的に見てみて、たかが30秒の、一緒に笑ってやり過ごしてしまえばいいだけの、気にしすぎな内容にも見える。だが、たかがそれだけのことに、これだけ思い悩む人間もいるのだということを少しでも知ってもらえたなら、この文章を書いた意味もあるのかもしれない。

追記:方言について(2024/04/12)

 「肥後(ひご)もっこす」は、概ねザ・九州男児の頑固親父に対して、やや侮蔑的な意味を孕みながら言う言葉だ。それを誇りにしている人もいると、語弊のないように添えておくが、あまり本人の前で言うような言葉ではない。それがなんだ。なぜ旭川のBさんが知っている。しかもそれをなんで女の子の主人公Aに使ってるんだ?北海道と熊本なんて日本の中でどれだけ南北に離れてると思う。どこかで知ったにしてもその布石もない。
 そして、その使い方も全く間違っている。地域にもよるかもしれないが、自分は間違っていると断じる。方言話者ならわかると思うが、間違って使われていたら即座にツッコミたくなるというものだ。旭川のBさんがあえて間違った使い方をしたいうシナリオだったとして、ならばAにツッコませなければならない。「それ、普通女の子には使わないんですよ!」とか。Aはそういうキャラだ。強い言葉はあまり好きでは無いけれど、方言をレイプしているとさえ感じた。
 ほかにも「えずか」は本来、恐怖の意味合いで使う言葉だ。怖かったり、ビビっていたり。ところが、音の響きから「えぐい」と勘違いしている人もいたし、使われているシーンから単純に「ヤバイ」「えぐい」の意味なんだなと独自解釈してしまっている人も多く見受けられた。しかも使われたのが、第1話の最も象徴的なシーンの一つであるゲイのシーンだと言うのだから最悪だ。こんなふうに熊本を利用されたくはなかった。

 総じて、リスペクトが無い。

 ゲイであることや、方言話者であることは、潜在的に滲み出るもので、根本的には変えることのできないことで、根源的にアイデンティティと結びついているものだ。そして、それらは大多数である一般的な異性愛者や標準語を話す人間に対して、マイノリティなものだ。
それをどうして簡単に踏み躙られるのか。どうしてそんな上っ面だけの、薄っぺらい、利用するだけのようなシナリオを書けるのか。
 物語の中でいじめの問題を描いておきながら、どうして物語の外でそんなふうにマイノリティをまるで軽率に虐めて、ネタにして笑いものとして扱って、見下して、踏み躙って、アイデンティティを蹂躙することができるのか。
 どうして、自分たちが決めたコンセプトを、悩みを抱えて、生きづらいと感じている人たちに訴えかけるような物語だったはずのものでこんなことができるのか。
 たった一つの30秒程度のシーンだ。けれど、それは最も私の嫌うところで、最もクリティカルなところで、逆鱗なのだ。私はこのシナリオを書き、そして地上波に解き放った人々を、心の底から軽蔑する。