他人軸の推し活だったと気付いた
自分軸での推し活ができていない気がする
この間、友人に誘われて共通のファンであるグループのライブビューイングへ行った。
誘われた当初からすごく楽しみにしていて、実際のところも楽しかったし興奮が冷めない1日を過ごした。
「ライブの臨場感が伝わるな」「この公演でしか出会えない瞬間なんだな」「このプロジェクトに関わった人すべてに感謝したい」等々思うところはたくさんあったけれど、肝心の「自分の推し」の最高だった瞬間があまり思い出せない自分もいた。
観ているときの自分を思い返しても「このシーンの〇〇友人が好きそうだな」「ここはきっと〇〇の推しポイントだな」と友人が好きそうな箇所を考えながら注目していたように思う。
公演後の会話でも友人の推しについては話せるけれど、いざ自分の推しのことになると「どこが最もよかったんだろう…」と言葉に詰まる。(もちろん推しに悪いところがあったわけではなく)
好きで観に行っているのに自分軸で鑑賞できていない自分に愕然としたし、悲しくなった
日頃から人と話すときに「この人はどういうリアクションを求めてるか」を常に考えてしまってなかなか他人軸から脱せていない自覚もあったけれど、今回のことでさらに自分の中でそれが確固たるものとなってしまった。
八方美人は「すべての人から好かれたい」というイメージがあるのだけれど、私の場合「どうすればこの人は心地よく会話ができるだろう」と考える。
相手が気分よく過ごせるのであれば自分の意見は二の次でいい
だから相手をよく知らないうちは会話が怖いし、多人数になると個々に合わせた返答が難しくなるから苦手
他人軸で生きている弊害がずっと続いている
自分軸・他人軸という言葉が浸透してそれなりに経つ
今までの自分の生き方に名称がついた安心感のようなものもあるし、カテゴライズされたことでなおさら直さなきゃいけないという気持ちも強くなった。
推し活を通して再認識させられるとは思っていなかったけれど、この先の長い人生、もう少し自分中心に物事を考えても良いのかもしれない
近い将来、自分の推しの良さを自分の目で見て自分の言葉で語れるようになりたい