謙遜の範囲を越えて実際よりも自分を低く評価している人間
僕は歌が上手い。他人よりも優れている点が他には特にないので、これについては謙遜しないようにしている。何をもってして「歌が上手い」とするかは人によるし、そもそも歌というものは主観的で誰かと比べるのも無粋ではあるが、少なくとも自分ではそう認識してきた。この主張だけ切り取ると、かなり痛いエゴイスティックな野郎に見えるだろう。実際に日常会話の中でカラオケの話題になったりした際に「歌上手いんですか?」と何気なく訊かれて「はい」と答えると、結構驚かれる。大人しくて真面目で地味な奴だと認識されていることが多いので無理もない。説明の義務を感じてかつてバンドでボーカルをやっていたと付け加えると、より一層驚かれる。
日本では何かに明らかに秀でていても、それを自信満々に自ら公言することは許されない。仮にそれが実績の伴う客観的な事実であったとしても、その手の発言は炎上の火種になる。この国の出る杭を打つ因習を度外視しても、本当に才能のある人間は謙虚で常に満足していないという共通認識が広く浸透しているからだ。そして、それ自体は何も間違っていないだろう。しかし、叩かれたり嫌われたりすることへの恐れが無意識レベルまで染み付いているゆえに、謙遜の範囲を越えて実際よりも自分を低く評価している人間はあまりにも多い。自信があってもそれを発言しない姿勢が美徳とされるのは理解できるが、自分を下げて喋る習慣のせいでそもそも自信を得られないというのはちょっと不条理だ。
オーストラリアに住んでいた頃の当初、このあたりの感覚の違いをコミュニケーションの際によく体感した。僕は知らず知らずのうちに自分の英語についてよく謝罪していたらしく、友達や同僚から真剣に心配されたり忠告されたりしたことが何度かある。「お前の英語はとても素晴らしいのどうしてそんなに謝るんだ?」「あまり謝られるとこちらが責めているようで気分が悪い」という具合だ。僕はほとんど無意識だったし、謝罪は申し訳なさからというよりはむしろマナーとしての反射的な発言だったので、全くの逆効果だったことに驚いた。同様に自虐的なボケをしたつもりの時にも、本気で励まされて居た堪れなくなったりもした。どうやら日本人の自分を低く見せる言動は結構異様らしい。
他にも細々とした例は無数にあり、そのうちの一つが履歴書である。英語での履歴書はちょっと罪悪感を覚えるほど自分を良く書かなければならない。欧米人にしてみれば自分を売り込むのだから当然だという感覚なのである。僕は作成を友達に手伝ってもらったのだけど、自分の英語力について"Fluent"と書くのにはかなり抵抗があった。直訳で「流暢」である。しかし友達いわく、僕に英語力で劣る人間でも自称"Fluent"はいくらでもいるとのことだった。彼らにしてみても別にハッタリをかましているのではなく、本当に自らが"Fluent"だと認識しているらしかった。
散々ハードルを上げてしまったような気もするけれど、最後にボーカルカバーを一つ貼っておく。公平性のために触れておくと、この動画では他人の曲を歌っているだけだし、一発録りしたかのように見せかけて実は編集が施してある。それらを踏まえた上でも、やはり僕は歌が上手い。