傷心した際に海へと出掛けて己のちっぽけさを知るという一つの行動様式
オーストラリアに住んでいた頃、田舎の葡萄農園で働いていた時期がある。ワイン用の葡萄を専門に扱っている大規模なファームだ。僕は毎日ほとんど真っ暗な早朝に起き、滞在していたワーキングホステルの仲間と一緒にボロボロのバンに乗り込んで仕事に出掛けた。丁度道中に陽が昇り始めることが多く、インスタグラムで加工したみたいな明るいオレンジと濃い紺色のグラデーションの空が東に広がった。誰かが言っていたが、オーストラリアの大気圏にあるオゾン層には穴が開いていて紫外線がだだ漏れしているらしい。その影響でちょっと信じられないような空模様が毎日のように描かれ、オーストラリア人の皮膚癌発症率は世界一になっているとのことだった。住宅街が途切れると何もない荒野が延々と続き、やがて果てが見えない広大な葡萄農園が広がった。敷地内に入り込んで少し進むと、視界の全てが地平線まで続く木々で埋め尽くされ、区画別に振られている番号札を確認しなければ迷子になった。実際に誰かの行方が作業中に数十分ほど分からなくなるという事態が日常的に多発し、連絡を取ろうにも携帯の電波はなかった。トラクターで周回している農園側の労働者達はトランシーバーで連絡を取っていた。当時は収穫のシーズンではなく、僕達は葡萄の葉を適度に間引くという作業を昼過ぎまで延々と続けた。仕事の後にブーツを脱いでひっくり返すと乾いた赤土が大量に溢れ出た。最初の数日でサングラスや服の日焼け後が冗談みたいなコントラストになり、二週間後くらいには作業服を買い替えなければならなくなった。そんな日々が二ヶ月くらい続いた。時折なぜそんなことをしているのかも分からなくなりながら、僕は一日中ただただ葉を千切った。傷心した際に海へと出掛けて己のちっぽけさを知るという一つの行動様式があるが、だだっ広いオーストラリアの葡萄農園で働き続けるとその月並みな教訓の意味を体感することになった。
ある朝のことを鮮明に覚えている。気持ち良く晴れた涼しい日で、僕は仲良くしていた韓国系オーストラリア人と隣り合った葡萄の列を割り振られていた。彼は自分が乗ってきた四駆の大きな車のステレオで音楽をかけた。静かなギターのシンプルだが印象的なコード進行のアルペジオから始まり、ゆっくりと熱を上げるように繊細かつ骨太なロックサウンドが展開されていった。ボーカルの中低域が際立った力強い歌声には微かな憂いがどこかにあった。僕が曲を気に入ったと伝えると、「Foo Fightersだよ」と彼は答えた。勿論フー・ファイターズは知っていたし、その"Everlong"という曲も聞いたことがあったのだけれど、それほど特別な思い入れはなかった。しかし、音楽というものは具体的な記憶に一度紐付けられると、全く違う意味合いを持って一生頭から離れなくなる。今僕が当時の記憶に思いを馳せると、あのアルペジオが脳内で自動的に再生され始める。そして、逆に何の気もなしに曲を聴くだけで当時の記憶が蘇ってくる。
実はこの葡萄農園での経験については以前にも別の記事に書いたのだけれど、記憶がどれだけ正確に残っているかを調べたくなったのでもう一度ここで書き直してみた。照らし合わせてみると文章の焦点が微妙にずれていて面白かった。また描写のディテールや精度ではやや劣化しているものの、全く同じ例えや心象風景があったのには驚いた。何年か先にこの経験についてまた書いてみたい。