公共の場で不特定多数にアピールするという行為
いわゆる「痛車」と呼ばれるオタク仕様の外装が施された車をかつて稀に見かけた。車にはかなり疎いのであれがステッカーなのかプリントや塗装なのかはよく分からないのだけれど、漫画やアニメのキャラクター(主に美少女系)が大胆に配されたデザインは結構衝撃的だった。おそらく時代的には『電車男』の映画やドラマが流行ったのと同時期で、オタクカルチャーがある種のマイノリティとして世間に広く認知され始めた頃だった気がする。ちょっと今では信じ難いが、当時は漫画やアニメ好きを大きな声では言えないような風潮があった。ゆえに痛車はそんな世間に対する強烈なカウンター的リアクションにも捉えられた。今ではあまり見かけなくなった気がするが、一部の熱心な愛好家達はどこかでコミュニティを築いているのだろう。
これは完全なる憶測なのだけれど、あれをやっている本人達も痛車が単にデザインとして優れているとは思っていないはずである。お気に入りのバンドのTシャツや応援しているスポーツチームのキャップを被るのと同様に、自分の好きなもののアピール、あるいは立場の表明という意味合いが強い気がする。
だとすれば、車という媒体は何かを主張するにはちょっと過剰である。大型トラックで看板広告を出しているホストクラブや、演歌を垂れ流している右翼の宣伝車に通ずるものがなくはない。どんな趣味や思想があろうとそれは個人の自由だし、そのことで差別・迫害する気なんてないが、別にそれをわざわざ教えてくれなくても良い。公共の場で不特定多数にアピールするという行為は、中身である主張の正当性を下げかねない。
痛車のような特殊な例を除き、一般的な意味合いでの車好きな人間にはどこか体育会系の気質がある。もっと率直に言えばヤンキー気質があり、縄張り意識みたいなものも高い。彼らは車体を下げたりマフラーやホイールを変えることに自尊心を見出し、AK-69か浜崎あゆみを崇拝している。一方でそんなカルチャーとは無縁に育ち、純粋に車そのものに対して情熱を燃やす人間も少なくない。彼らはもっと実際的なスポーツ仕様を求める走り屋タイプで、『イニシャルD』を必修科目として履修している。四半世紀くらい遅れたファッションに身を包み、最先端と古き良き機能を選び抜いて搭載した拘りの愛車で山を攻める。
いや、これももはや古いステレオタイプなのだろう。電車男で描かれていたようなネルシャツをタックインして大きなリュックから丸めたポスターを覗かせているオタクが絶滅したように、今は十周くらい回って車好きな人間もテスラでYOASOBIを掛けているのかもしれない。
僕は本当に車というものにあまり興味がなく、そこに並々ならぬ想いを懸けている人には感心というか圧倒させられる。主張や広告の手段としても利用されるくらいなのだから、物理的・視覚的な訴求力以上の何かしら人を惹きつけるロマンみたいなものがあるのだろう。その手の感覚は分かる人間には最初から分かるし、分からない人間には永遠に分からない。おそらく十代が終わる頃くらいまでの経験で大体決まってしまうことで、それ以降は努力で理解しようとしても埋められない差というものが存在する。
僕はそういう感覚を音楽や小説や映画に割り振ってきたし、それは今でも基本的には変わらない。同年代の友達が子育てや家のローンに頭を悩ませている間、『ユリシーズ』を苦労しながら読むのが僕の人生である。というのは嘘で、今はもっぱらNetflixで下品なスタンダップコメディーを観るのにはまっている。