福音

 サークルにヨハネという先輩がいる。洗礼名がヨハネ。自称カトリック2世だが、末期のマザコンなので、親の強制というより半ば好きでクリスチャンをやっているらしい。
 だけどヨハネは死後の世界なんて信じないと言った。だから彼はうつ病になった時でさえ、死のうとしなかった。生きる気満々のクリスチャン兼うつ病患者、変なの!

 ヨハネは生命力で溢れていた。死ぬ気がないのだから当然である。浴びるように酒を飲んで、叫ぶようにニルヴァーナを歌って、そのまま大いびきをかいて寝る…生きている人間が、本能の赴くままに遊んだらきっとこうなるんだろう、という振る舞いをヨハネはした。そんな振る舞いをいとも簡単にやってみせる彼が、羨ましかった。彼は道化癖があって、口では出まかせばかり言うが、行動は信じられないほど素直だった。そんな彼は、色々な感情を日記に閉じ込めてきた私にとって、憧れの存在だった。できるものなら、彼の魂をそのまま吸い取って自分のものにしたかった。

 さて私はこのヨハネがとにかく大好きだった。だけどその愛情はきっと歪んでいて、私はヨハネに愛情を注ぎ続けるのが、時々辛くなる時があった。彼は私のことが好きじゃないんだ、というのが垣間見える度に、胸がぎゅっと締め付けられた。私は彼にも愛して欲しかった。そうして彼の隣を私の「居場所」にしたかったし、彼の霊魂をそのまま自分のものにしたかった。

 もちろん、私の思いとは裏腹に、彼は私のことを心底どうでもよく思っていた。お前が死にかけていてもきっと助けない、と、酔いが回った彼は零した。これは彼が厭世家だからというわけではない。彼には、親友も好きな人もいたし、何しろ重度のマザコンだった。本当に彼は私のことが好きではないだけらしい。悲しかった。だけどきっと彼はこの私の悲しみも、私の愛情も、私の下の名前さえも知らない。



「起きろ」

 頭の上の方でヨハネの声が聞こえた。ニルヴァーナに飽きて、カラオケのソファで大いびきをかいて寝るヨハネを見ているうちに、どうやら私も眠っていたらしい。だが起きたくなかった。このまま朦朧とした意識の中で、何も考えずにずっと過ごせたらどんなに楽だろう、とぼんやり思った。もし死後の世界が「無」なら、私は喜んでこのまま深い眠りにつこうと思った。私には生きる活力がないのかもしれない。彼と正反対だ。

「起きろ、時間だぞ」
 …ああうるさい、時間なんて、生きてる人間しか気にしなくていい指標さ!

 しかしずっと無視し続けるわけにもいかないと思い、私はヨハネに対して何か応えるそぶりを見せようとした。ちょうど彼がマラカスをこちらに転がす音が聞こえたので、それをキャッチしようと手を伸ばした。

 すると、彼が私の手をとった。おそらく私を起こそうと思ったのだろう。しかしその瞬間、私は背筋に悪寒が走るのを感じた。
 そもそも、寝ている人を起こそうなんて、生きる気力のある人の発想である。その発想がすぐ出てくるヨハネが怖かった。私は、真冬に屋上で寝ている彼を起こすことができなかったのに。
 そして、彼の手は私の何倍も温かかった。生きている、まさに生きている人の温度だと思った。そのことにどうしようもなく腹が立った。早くこの手が冷たくなってしまえば良いと思った。あるいは、死後の世界がないなら、死なないにしてもどこか遠くへいってしまえばいいのに、と思った。ヨハネが死んだり失踪したりしたら、きっと彼の母親と親友が悲しんでくれるだろう。彼は私がいなくても、ちっとも孤独じゃない。いい人生だな!!
 そうして、天涯孤独の私には、また「居場所」なんてなくなって、ほら元通り、通常運転、結果オーライ。

 でもなぜだろう、今まで幻想だと思っていた「居場所」が、手に取れるところまできた途端、私はそれを失うのがどうしようもなく惜しくなってしまった。そうやって私はヨハネに固執し続けるのだろう。情けない。



 彼は私の手を離した。離されたことに安心した。それなのに。

「新しい彼氏とは、もう手繋いだ?」


 ……馬鹿なヤツ!大嫌い。


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