要介護祖母の備忘録② 21年〜22年夏 兆候から認知症発覚まで
まずは、登場人物の紹介と認知症発覚の経緯について時系列に沿って書いていきたい。
学びや反省点については最後に述べる。
登場人物
私
アラサーのフルタイム正社員。一人っ子。
東北で暮らしながらリモート勤務している。
22年末に結婚。夫もフルタイム正社員。子無し。
母
私の独立と父の単身赴任のため、関西で一人暮らしをしている50代。一人っ子。
多趣味で、扶養内で個人事業主やパート勤務をしている。
父親を幼少期に亡くしているため、シングルマザーとなった祖母に代わって「私」の曽祖母に主に育てられている。短大入学を機に、18歳で上京している。
祖母
母方の祖母。4人兄弟の長女。
結婚を機に故郷の沖縄を離れて中部地方で一人暮らししている。弟二人は近所に住んでいる。
自尊心が強く、物事をはっきり言う性格。
家事が得意で、特に料理は絶品。
シングルマザーとなってからアパレルで働いてきた関係から、洋服のコーディネートやお洒落が大好き。
21年 祖母79歳 認知症の兆候
時系列に沿うと書いたばかりだが、この年は決定的な出来事が起きたというより認知症の兆候が細かく散見された時期なのでこまごまとした箇条書きになるのをお許しいただきたい。
以下が特に気になった兆候。
•同じ話を繰り返すなど、物忘れがひどくなる。
直前の出来事が覚えられなくなる、短期記憶力低下のわかりやすい兆候。
•異常と感じるほどの興奮状態に陥ることがあった。
この頃、母は定期的に祖母に電話をかけていたのだが、母親のなんらかの発言により興奮してしまい、さっきまで落ち着いて会話のキャッチボールができていたのに急に声が大きくなって一方的にベラベラ喋り出した。母が「お母さん!お母さん!」と電話口で叫ぶも聞こえていない様子でおしゃべりが止まらなかった。(ちなみに怒りや悲しみなどネガティブな要素を含む興奮ではなかった)
•一人行動が必要な時、極端なパニック状態になった。
東京から東海道新幹線に乗って名古屋まで行こうとしていた頃、名古屋に着く15分前ほどから落ち着きがなくなった。同乗していた私と母は関西まで行く必要があったため、一生に名古屋で降りれないので不安になったのだと思う。母親が書いた乗換手順のメモ、ICカード、新幹線の切符をパスケースにまとめていたのを、ポシェットのポケットやハンドバッグの中などにバラバラに入れようとしていた。紛失の可能性があるからパスケースに入れたままにしておくといいとアドバイスするも生返事で入れ替え作業が止まらなかった。
•料理の味が不安定になった。
元々料理は得意で、晩ごはんに7品以上料理していた。ただ、この頃から味がやや不安定で、塩辛すぎたり薄味過ぎたりするようになった。調味料の量がうまく調節できなかったのか、味覚が鈍感になってきていたのかは不明だが、その頃は加齢によるものと母も私も片付けていた。
上記のことから、母は度々施設入所を祖母に電話口で勧めていたが毎回断られていた。
曽祖母も施設に入所しており、そこで穏やかに天寿を全うしていたのだが、祖母は曽祖母のいた施設がどうしても気に入らなかったため、他の施設でも嫌だという考えだった。(曽祖母の施設への嫌悪の理由は不明)
恐らくだが、一人暮らし期間が長かったため、今更集団生活など苦痛だという思いがあったのだと思う。
元々、祖母と母は相性が良い方ではない。
母は祖母と電話をするたび、大体喧嘩になり一方的に電話を切られていた。
喧嘩の理由は「祖母が事前予告なしに送った小包を、たまたま母が旅行中で受け取れなかった」「母が送った手作りの門松の飾りかたを教えたら、見たら分かることをわざわざ指導されたのが気に食わなかった」など、母に非があると思われることはなかったのも付け加えておく。
元来かっとしやすい性格の祖母だったが、この年は特に激昂する理由に理屈が通らないものがおおかったと思う。
喧嘩になると、母は私に愚痴る。その愚痴の頻度も増えていたのが気がかりだった。
22年夏 祖母79歳 認知症発覚
夏の間に大きめの事件が二つもあったことから、いよいよ認知症であることがはっきりしてきた。
どちらの事件も、こと金銭に関わることになるとわけもわからず鬱状態になる程に不安を覚えてしまうという、祖母の苦しい状態を表している。
保険の契約ミス
22年末に80歳になることから祖母が契約していた保険が満了間近だったので、祖母自ら保険の見直しを始めた。
めぼしい保険会社に連絡をし、生命保険担当の営業を家に呼んで契約作業を進めていた。
ここで祖母の年齢や健康状態など、諸々の条件を鑑みると明らかにオーバースペックで高価な保険を勧められていたのだが、祖母は内容を詳しく理解できていないまま快諾。
営業担当から「本部に電話するので、電話を私から受け取ったら全ての質問に『はい』とだけ答えるように」という指示があり、それに従ったことで契約が完了してしまった。
お昼頃に契約が完了し営業が帰社してから、祖母は急に自分が非常に損な契約を結んでいるという不安に襲われ、母に電話。
電話の内容も「自分は大変な契約をしてしまったのではないか」に終始し、いまいち要領を得ない。
母は「近いうちに直接確認に行くから」と宥めたが、電話が15分に一回かかってくるようになっていき、回数を追うごとに祖母の精神状態が悪化していった。
最終的には夜中に「心臓がドキドキして眠れない」という電話が数回かかってくるまでになった。
母がすぐ仲介に入り契約を全解除したため、無駄な金銭的負担は阻止できた。
その際、電話口の営業担当者には祖母が保険のことを少しでも考えると精神状態が悪化してしまう状態なので、今後保険について連絡事項があるときには祖母自身には連絡せず母を窓口にするようにお願いしてある。
しかし、同じ営業担当者が営業目的に再度祖母に電話連絡。
祖母はまた損な契約を結んでしまったと思い込み、母への電話連絡が止まらなくなってしまった。
母が電話口で契約状況を細かく説明しても祖母には全く理解できず、同じ質問を繰り返す。
私はこのままでは埒が開かないと判断し、母に「直接祖母に会って、紙に一つ一つの保険を図解したほうがいい」とアドバイスしたが、この方法でも祖母の理解度には変化がなかった。
財布を盗まれる
このまま保険契約のことが永遠に祖母の中で解決せず、電話連絡の頻度も落ち着かないままかと思われた矢先、別の事件が起きた。
祖母がコンビニに寄った際に財布を盗まれたと訴え始め、頻繁な電話連絡もこの話題に終始するようになり始めた。
祖母が言うには、コンビニのコーヒーマシンを操作する際に留め具のないかごバッグをカウンターにおき、その際に財布を何者かに抜かれたらしい。
「窃盗事件として被害届を出す必要があるからコンビニの防犯カメラを見たい」と訴える祖母に付き合い、祖母の弟が三回ほど祖母をコンビニに連れて行って防犯カメラを確認したが犯行現場は映っていなかった。
祖母がしつこく窃盗を訴えるので、祖母の弟と母が念の為に祖母宅を捜索。
結果、財布は玄関の靴箱の奥の方に隠れていた。
当の祖母は「こんなとこに私はしまってないよ、あはは!」と明るく笑い、そのまま財布窃盗騒ぎも忘れて鬱状態も回復した様子だった。
また、この間も短期間に家の鍵や印鑑などの紛失を訴えることが増え、その度に布団の間など不自然な場所で見つかることが増えた。
財布以外は比較的すぐに見つかったため、鬱状態は長引かないのは良かったものの、
紛失したこともすぐにけろりと忘れて同じことを繰り返してその度に精神的ダメージを新たに負ってしまう。
度重なる電話に音を上げた母が祖母を脳神経外科•物忘れ外来に連れて行き、認知症の診断が降りた。
反省点 学び
•認知症の兆候が見られた時点で脳神経外科の受診や施設でのショートステイを勧めるべきだった。
特に施設への抵抗をあらかじめ減らしておく必要があった。
祖母の自尊心の高さから難しい点はあるが、ショートステイだけなら「たまには家事休んで楽してきなよ」「友達の〇〇さんもいるよ」など、あらゆる方便を駆使して、「お試し」という気楽な観点から挑めるようお膳立てが必要だったと思う。
•認知力の落ちている相手に、丁寧に全てを説明することは必ずしも最適解ではない。
保険契約の件などの複雑な話題になると、認知症の相手には情報を覚えきれないし、頭で整理できない。
さらに、うつ状態では自分にとって都合の悪い解釈をして、どんどんどつぼにハマっていくという悪循環にまで陥る。
今後の備忘録にも必ず出てくる要素になるが、短期記憶力の低下のせいでショックな出来事もすぐ忘れ、また同じことを繰り返して傷つくなら、ハナから相手の注意を別の明るい話題に逸らして、水面下で問題解決に尽力した方がいいと思う。
相手が悩んでいることに共に向き合おうとしても、結局相手が何度も傷つく時間を増やしてしまうからだ。