循環
2020.08.11
「ありあまる富」の意味を何度も何度も捉え直した。
今行きついているのは、なんだかんだで自分の手元に残らなかったものは、自分の人生にとって必要のなかったものだ、ってことだ。
そんなの最期を迎えるときにしか分からないというのもその通り。
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そういえば、昔友達が全然観たこともない、あんまり知らない私の好きなバンドのライブについてきてくれたことがあったなぁということを思い出していた。
私もなんとなく、ほんのり興味があるぐらいで友達の好きなアーティストのライブについていったこともあって。
なんか、そういう時間に流れているものって、「自分も好きになる=何か得るものがあるかもしれない」というより、「あぁ、この人はこういうのが好きでこういうところでワクワクしてるんだなぁ」という友達の知らなかった面を知ることの方が楽しかったり。あんまり何も考えていないという説もあるけど、損得じゃなくて、ただ自分のそばにいる人のことを新しくひとつ知るみたいな時間が、また必要なんじゃないかなぁと。今は新しい選択を日々迫られていて、どうしても合理的な方向へ思考が向かうから、非合理的で損得勘定のない時間が少しだけ欲しい。
ああでもダラダラカフェで話したり黙ったりする時間が欲しいという話はしょっちゅうしているな、そういえば(笑)
あとは、もうこれ私のものだけどあなたのものでいいよ、みたいな、手でも足でも頭でも胸でも、使えるならばどうぞ、みたいな大盤振る舞いにあこがれている。自分の境目が溶けて滲むような心地良さ。
でもビビりでケチな私は、「絶対に搾取しない人」にしかそれはできないんですが。最近気付いたけど、自分が人と仲良くなれるなれないみたいなものってこの「搾取する人か、しない人か」みたいな感覚が大きいんだなと思う。
そして、ありあまる富に、ループする。人生はずっとぐるぐるしている。