見出し画像

〈アンタークチサイトが融ける夜〉

「南極石は二十五度で融解する。今夜は熱帯夜だ」
 透明な液体の入った瓶を、テーブルに置いた。薄暗い部屋。
 話を聞いているんだかいないんだか分からない知冬は、闇夜に光る稲妻を見つけようと夢中になっていた。手の中で回される、小さな天藍石の結晶群。スポットライトのように、それを照らすペンライト。
 カナダ・ユーコン産の艶のある結晶面が、光を返し知冬の顔を照らす。その様子はミラーボールを彷彿とさせるが、派手なものではない。結晶に拒まれた小さな光が闇をさ迷っているような、そんな頼りなく儚げな光だった。
「見えた。黄色」
 それは魂の囚われる瞬間。唇が薄く笑む。その視線は目の前の小石に注がれているようにも、その先の遠い果てを見据えているようにも見える。
「全部、綺麗な色だ」
「それを多色性という」
「多色性」
「ひとつの鉱物が二色以上の色を示す様」
「すごいなあ、物知りだ」
「ただの趣味だ」
 ベッドに寝転がり、窓の外を見る。やっと涼しくなってきた外気を取り入れるために、網戸を残して窓もカーテンも全開。夜空が見えた。
「この石何て言うんだっけ?」
「和名は天藍石。天空の天に藍色の藍。ラズライト」
「名前まで綺麗だなあ」
「よく似た多色性を持つものに菫青石がある。すみれの青。そっちも緑や黄色の多色性がある。でも俺は、黒に似た青の方が好きだ」
 網戸越しに、夜空へ手を伸ばす。闇の黒と夜の青。ラズライトの色。ラピスラズリが星空の石ならば、ラズライトは星のない夜の石。
 扇風機の空気を切る音だけが、聞こえる。静かな夜。
「この瓶の中身も石なんだっけ? 凍らせると石になる?」
 やっぱり聞いていない。
「二十五度以下になれば結晶する」
「二十五度……人間と同じだね。僕も二十五度越えると暑いと思うもん。暑くなると融けるの、同じだよ」
 今まさに、ベッドの上に大の字になっている俺は融けた状態だろうか等と思う。頭が沸いている。
 南極石は湿度が高いと潮解し、また五十度を越えると分解するデリケートな鉱物だ。言う通り、人間に似ているかもしれない。
「他にも面白い石ある?」
「面白い……棚の上から二番目の右から三番目に並んでいる箱」
「白い箱?」
「そう。それをペンライトが入ってたケースに一緒に入ってる、もう一本の青い光が出るペンライトで照らして遊ぶといい」
「何が起こるの?」
「見れば分かる」
 目を閉じてイメージする。月の女神の名を冠する石。その蛍光と燐光は、月の光のように柔い。
「なんか……石から後光が……」
「後ろから光ってるんじゃなくて石そのものが光ってんの」
「やっぱ光ってるのこれ!? 石って光るんだ~」
 目を開ける。空に月は見えない。知冬のはしゃぐ声が聞こえる。
「いいな~これ……蛍の光とか、夜のカーテン越しに見える雪の光とか、薄い雲から見える月の光とか、そういう目に優しい光してる」
「ご名答。そいつの名前はセレナイト。月とか月の女神の名前が語源」
「名が体を表してる」
「和名は透石膏」
「急に情緒がない」
「爪で削れる脆さだから丁重に扱ってくれ」
「箱から出せないじゃん」
 俺の持っている透石膏はオレンジ色だ。セレナイトという名前は、蛍光や燐光ではなく、無色の透石膏の美しさを表すものだと思う。
「くそ暑いな……」
「なんかこう……涼しくなるような石ってないのかな?」
「氷だろ」
「身もふたもない」
「最も身近な鉱物は氷だ」
「えーそうなの……ああでもそっか。冬になって雪に囲まれてるときなんかは、形は違うけどこういう結晶に囲まれてるのと同じだね」
 雪の晶洞。知冬の言葉でそんなイメージをした。それはきっと涼しいというか、寒いだろう。
「コンビニでアイス買ってくる。海音はなにがいい?」
「チョコの」
「はーい」
 また扇風機の音が聞こえるようになる。体を起こして、デジタル時計で見れる室温を確認した。
 二十九度。心が砕ける音がした。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?