〈夏宵薫/冬凍香〉翼
日中に上がった気温が下がっていく。夕飯も終わり、未来が見たがっていたテレビ番組もあらかた終わり、風呂も終えており、あとは寝るだけという状況。
しかし、涼しさを取り戻したこの時間を俺は手放せず、ソファーで無意味に過ごしていた。特に見たいとも思っていないテレビを、未来の隣で眺めながら。
「この匂いさ、翼っぽいと思ってたんだよね」
不意に、未来が呟いた。何のことを言ったのか探ろうと目線をたどれば、少しだけ開けた窓から吹く風で、カーテンが揺れるのを見ていた。
匂いに集中してみたが、別段気になるような匂いなどない。
「何の匂いだ?」
「なんか、夏の夜の匂いっていうのかな? 今も感じる。お祭りの帰り道とか、花火大会の帰り道とかによく嗅いだ気がする」
言われてみれば、なんとなくイメージできる気がした。子供の頃にそれを感じた記憶がある、気がする。
そんな匂いなんかを人に当てはめる気が知れないが、話す未来の唇は弧を描く。
「なんか安心するんだ。だから夏はよく窓を開けて寝るんだ」
「腹冷やすなよ」
「お腹出して寝てないよ!」
「キレることないだろ図星かよ」
「怒ってないし!」
そう言う割には、不機嫌そうに口を尖らせている。嘘つきなやつだ。
「とにかく僕はこの匂いが好きなんだよ。できるだけ嗅いでたいの。嗅ぎながら寝るのが一番好き」
「……へえ」
なんとも言えない気持ちになる。俺をイメージする匂いが好きだと言うが、特に嬉しいわけでもない。
未来は突然目を輝かせてこちらを見た。
「翼はさ、僕っぽい匂いって何かある?」
訳のわからない問いだ。でも言われてみて、思い当たるものがひとつある。
「寒い匂い」
「寒い……冬の匂いみたいな?」
「そう」
冬に感じる匂い。あるいは雪の降った日の匂い。たぶんあれは匂いそのものではなく、鼻が感じた寒さを匂いとして記憶しているだけだ。
なぜそれが未来をイメージするか。根拠を出せと言われても特にこれというものはない。むしろ未来らしいイメージとはかけ離れているような気さえする。
「翼は、それを嗅いでどう思うの?」
「……冬が来たな、とか今日は気温零下かとか」
「うん……確かにそうだね」
もっと言えば、落ちつく。それを言いかけて気がついた。
匂いというのは感情と結び付きやすいという。それは脳内の情報処理の関係らしいが、もしかしたら全然イメージとかけ離れているそれらを結びつけているのは、感情かもしれないと思い付いた。
未来を見た。「ねむくなってきたなぁ」等と言いながらだらけている姿は、寒さや冷たさの欠片もない。
あの匂いを感じるとき、俺は何を感じていただろうか。寒さを感じたということはその直前までは、暖かいところにいたはずだ。寒さに対比して感じる、その温もりと付随してくる安堵感を思い返す。その感情と、未来の隣にいるこの感覚を比べてみる。
「ああそっかあ。昼間の暑いのが終わって、涼しくなってほっとする感じと、翼と一緒にいてほっとする感じが似てるんだな~」
同じタイミングで未来が同じことに気がついたようだった。楽しそうに笑う。
「暑いと涼しいのがありがたいもんね」
なんてことでもないように言って、未来は寝ると言って立ち上がった。「おやすみ~」と目の前で手を振って、自室へ行った。
子供の頃の記憶を手繰り寄せる。底冷えの冬に見上げた曇り空。そこから落ちてくる羽毛のような雪と、白い自分の吐息。自分の家だって大した暖かい場所ではなかった。それでも凍てつく外の世界で、薄っぺらなジャンパーとマフラーの中に潜ませた温もりを、大事に抱えていた。冬の匂いを嗅ぎながら。