米津玄師「灰色と青」
Skyのフレンドさんが、ウィンターピアノで弾いたこの曲を、You Tubeに上げていた。昨日の出来事だ。
聞いたらなぜだか泣きそうな気持ちになった。
十五夜の月を見に行ったときのこと。
月を見上げて出会ったことのない人を思い浮かべ、同じ月を見上げていたらいいなと思っていた。
ブランコに揺られながら酒を飲み干し、煙草に火を付ける。携帯用の灰皿は忘れて来たので、吸い殻は今しがた飲み干した酒の瓶の中へ。
MVの菅田将暉も、こんな風にブランコの左側に座って煙草を吸っていたっけ、なんて、思っていた。
数日前から「袖丈が覚束ない夏の終わり」という歌詞が、頭を行ったり来たりしていた。アスファルトに落ちた葉を見ては。トンボすら見なくなった遠すぎる空を見上げては。ひまわりと並ぶコスモスを見ては。
これ以上に秀逸な秋の始まりを表現する言葉を、僕は他に引き出すことができないのだ。
この曲をはじめに聞いたときのことを、僕は思い出として取っておいている。米津玄師が好きな僕は車の運転席に。菅田将暉が好きな僕の友人は助手席に。そのときにラジオから流れて聞こえた灰色と青を、通り過ぎていくイチョウ並木を眺めながら聞いていた。
この時期になると「脊椎がオパールになる頃」のパーカーを羽織るようになる。春にも着る。その春によく見る霧を、今朝窓から眺めた。
月見酒に行ったときには、春の花見酒を思い出していた。あのときはビールと寿司だったけれど、月見は日本酒とまんじゅうだった。外を出歩いて心地よいと思えるのは、やっぱり春と秋なんだ。
でも心持ちが違う。僕は始まったばかりの秋を惜しみながら、既に春を思っている。春を待つための心の準備を、今からしているのだ。
急いているような僕を、この曲は立ち止まらせてくれる。
花の蕾がふくらむのを待つように、木々の葉が色づいていくのを毎日注視する。スーパーに並ぶブドウの香りを吸う。金木犀の香りと彼岸花の鮮烈さを浴びることができる地域は、もっと色鮮やかな季節なのだろうか。
それでも冬に向かい、くすんで色を失っていくこの季節が、僕は好きらしい。そしてこの曲は、この季節がくれる感情を綴じたアルバムなのだ。