〈キスの日は昨日だったけどキスをネタに何かを書きたいと思って無理矢理書いた話〉未来
朝起きたら翼が猫になっていた。自分でも何を言ってるか分からないし夢を見ているのかもしれないけど、とにかく翼を起こしに行ったらベッドで寝てるのは猫だった。
「……えー?」
掛け布団の上で、大きな黒猫が体を大きく伸ばして寝ている。冷静に考えて翼じゃない。どう見ても猫だ。でも翼はどこにもいないし、翼のベッドで猫が寝ている。
「……翼?」
そっとそばに寄り、猫に呼び掛けてみた。猫が目を開く。深い深い青色をしていた。
猫の目ってこんなに綺麗なんだな。そう思ってじっと見ていたら、目を閉じてしまった。僕はもっと目を見ていたくて呼び掛ける。
「ねえ、翼なの?」
猫はまた目を開けて、耳をぴくりと揺らした。大きな体に見合う長い尻尾が、返事をするようにベッドを叩く。
「猫になっちゃったの……?」
僕の言葉を聞いているのか聞いていないのか、猫は起き上がって伸びをした。普通の猫より体が大きい。猫でも大きい種類の猫がいるはずだけど、たぶんそのくらいの大きさがある。
つやつやでふさふさした真っ黒な毛並みと、澄んだ湖の水底のような青い目がとても綺麗だった。その目が僕を見上げる。「にゃぁん」という鳴き声で僕はもうだめだった。
「かわいい!!!」
悶えた。猫ってこんなに綺麗でかわいい生き物なんだなと感動する。猫は飼ったことがないから、友達の家で飼われている猫と触れ合うか、野良猫を遠目で眺めるだけだったけど、こんなにたまらなく好きだと思ったのは初めてだった。猫は嫌いではないにしても犬派だったし。
でもこの猫は生ける美術品だった。漆黒の闇夜に二つはめ込まれた青の宝石。
触れたいと思って手を伸ばしたら、結構な勢いのネコパンチで手を叩き落とされた。僕は確信する。
この猫、翼だ。
「ねこちゃん君、翼でしょ」
つんとそっぽを向く猫。綺麗な目をいつまでも見ていたいのに、なかなかそうはさせてくれない。あんまり人の目を見て話さない翼にそっくりだ。というかもう翼にしか見えない。
でもどうにかして触りたい。もふもふなのだ。
さっきみたいにいきなり触ろうとすればまたネコパンチされるかもしれないので、手を近づけて様子を見る。猫は怪訝そうな様子で僕の手を見た。ゆっくりゆっくり近づけていって、首の下辺りのふわふわに触れる。猫はすぐに離れていった。
僕は触れた手を見た。ふわっふわだった。
「たまらん……」
もう一度、と思って猫を見ると、彼は恨みがましい目でこっちを見ていた。そんなに嫌だったのだろうか。そのままベッドの下へと潜り込んでしまう。
「あああぁ、ねこちゃぁん」
ベッドの下に手を突っ込んでも引っ掻かれるだけに終わった。いくら呼んでも返事すらしない。僕はしょぼくれて翼のベッドに寝転がった。
「翼~……」
温もりが残るベッドに二度寝を誘われる。朝ご飯あるけどな。翼は猫だし何が食べれるかな。そんなことを考える。
まぶたが閉じてきたところで、ベッドの隣の辺りが重さで沈む気配がした。見ると、いつの間にか猫がいた。猫は僕の隣で丸くなる。
僕は硬直した。さっきまでの警戒心はなに? 急に気を許すの? これはデレ? ツンデレのデレがきたの?
歓喜で目が覚めた。でもまた警戒されたくないから、そっと手の甲を猫の背に寄せる。意気込んで触ろうとするのではなく、それとない感じで近づけたら触れられた。逃げることもない。想像した以上に柔らかな毛と高い体温が、手に伝わる。幸福に手触りがあるとすればこんな感じだろうか。
キュン死という言葉をずいぶん前に聞いたことがあるけれど、ときめきで死ねるのならたぶん僕はこの猫に三回くらい殺されてる。
ずっとそうしていたかったけど、猫は起き上がって僕の方を見た。どこかに行ってしまうのだろうかと思っていたら、猫は寝ている僕の顔を覗き込む。綺麗な瞳なのに目付きの鋭さが翼のまんまだなと思っていたら、猫はどんどん顔を近づけてくる。反射的に目を閉じたら、鼻先にひやっとしたものが触れた。
「猫のままの方がよかったのにな」
舌打ちと共に聞こえた言葉で目を開いたら、そこにいたのは人間の翼だった。
心臓飛び出ると思うほどビックリして文字通り飛び上がったら自分のベッドの上だった。僕は混乱した。
スマホで時計を確認したらいつも起きる時間だった。起き出して部屋から出たら用意したと思った朝ご飯もない。
最初に夢を見てるかもと思ったけど本当に全部夢だった。全身から力が抜ける。
「もぉ……もぉ~」
起きたばかりだけど疲れた。夢の中でも作ったご飯をもう一度作るのにもちょっと疲れた。翼を起こしに行ったら猫がいたということもなく、普通に翼が不機嫌そうに起きた。
翼に夢で君が猫だったよと伝えたら「いいなそれ」と言っていた。夢でも猫のままの方がよかったと言っていたし、猫になりたいのかもしれない。
それ以降、翼がたまに猫に思えるようになってきた。魚が好きなところとか、休日は昼でも寝ているところとか。目は青くないしかわいくもないしふわふわでもないしデレもないけど。
久々に姉ちゃんに会って話したとき、思い出してその夢の話をした。姉ちゃんは笑って、「猫が鼻でちゅってするの挨拶らしいよ」と教えてくれた。
猫が好きな姉ちゃんはやたら猫に詳しかった。目を逸らすのは相手を信頼していて敵意がないことを示すため。尻尾をゆるやかに振るのは気持ちが穏やかなとき。瞳孔を見れば感情が高ぶってるか分かる、等々。
そして最後にこう言う。
「藍川くんって、猫みたいだよね」
僕は何度も頷いた。