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後悔先に立たず でもきっかけになることはある

唐突だが私の両親は8年ほど前に他界した。この「ほど」は、あまり記憶がないためだ。喪主を務めてはいたが、心がやられすぎていて、あまり細かなことは覚えていないのだ。

母、父方の祖母、父と4ヵ月スパンでいなくなった。1年で家族3人を亡くした私は、そのときから他人の死や自死といった、いくつもの死と隣り合わせで生きてきた。

今でも思い出す。母親が電話に出ない、家にも居ない、お弁当箱も外に出ていない、とケースワーカーさんから連絡があったあの日。ちょうど私は父の病院に付き添っていた。生前通っていた精神科にも電話をしたが来ていないと言われ、慌てて母の家へと向かった。もちろん出ることはなく、警察と救急隊員が天蓋?を開けて中に入ると、母はストーブの前でカエルのように死んでいたそうだ。

泣きながら母を呼ぶ私に当時の彼だった今の夫は、目を真っ赤にしながら『いいかよく聞け。母さんは眠るようにベッドで亡くなっていた。なんにも心配することはない』と言った。

でも、救急隊員の人が私の存在に気付かず、通信機で『うつ伏せです。潰れたカエルのような感じですね』と言っていて、夫はやさしい嘘をついてくれたんだと思っている。


そもそも私と両親に血のつながりはない。昔で言う里子、つまり養子だった。30代で子宮を全摘出した母は、どうしても子どもが諦められず、夫である父と養子になれるような環境を作るため、里親会と呼ばれる会に入会した。

児童相談所にも足繁く通い、担当者と何度も面接や話し合いをしてはかわいらしい子どもを探していた。

あるとき、不慮の事故で亡くなった母親の車に、一人残っていた生後1ヵ月の赤ちゃんがいたそうだ。それが私てあり、児童施設にいると聞きつけた両親はすぐに養子の手続きを進め、ずっとつけたかった名前をつけた。

一人っ子で育てられた私はずいぶんと甘やかされて育った。行きたい塾があれば行かせてもらえたし、進研ゼミをやりたいと言えば3ヵ月ほどすると入会してもらえた。

ほしいおもちゃを買ってもらうことは少なかったが、クリスマスプレゼントが枕元に置いてあったときは必ず父が新聞を読んでいた。「サンタさんきた!!!!」と父にかけよると、『どら!なにはいってた??』と低い声ながらもニコニコし、うれしそうに見ていた。わくわくしながら包装紙を開くと、おもちゃ屋さんの値札が貼ってあるプリントゴッコだったのは良い思い出だ(価格は4,890円だった)。

5歳のとき、私は気管支炎に罹った。真夜中に高熱が出ると、向精神薬まみれだった母が私を抱きかかえて父の運転する車に乗った。

「わたし、しんじゃうの?」と母に聞くと、『そんなことないよ、だいじょうぶ』と言った。子宮全摘出によって心に大きな傷を負った母は、亡くなる1週間前まで通っていた精神科で多数の向精神薬をもらっていた。そんな母でも、当時は心配で心配で、早く病院に行ってなんとかしてもらいたいと思っていたそうだ。

そんなエピソードがあっても、私はわがままだった。というか、土足のまま母と知らない男と実家に上がり込み、母の荷物だけを運んだ日からいろいろ私の中でも変化した。

グレることはなかった。嘘をつくのは嫌いだったし、友達が大好きだった。嘘をつかれれば問いただすような性格だったけど、あるとき人生が大きく変わった。

それから、私を引き取り男手ひとつで育てた父を、振り回しては傷をつけてしまった。今思えば、母にもだけど、父にももっとやさしくできなかったのか、なんてひどいことをしたんだと思う。

しかし先述したように、両親はもういない。


今日は夏至ということで、仏壇周りをきれいに片付けた。しばらく片付けられずにいたので、母の遺影も夫の父親の遺影も埃まみれだった。父親の遺影は夫と大きなケンカをして、父の弟である叔父さんの手に渡っている。当時は父の遺骨もあり、離婚する流れになっていたことから夫が叔父さんに話をして引き取ってもらっていた。

とはいえ、父の遺品は残っている。通勤を含め、出掛けるときは必ず持っていたセカンドバッグと財布だ。免許証もある。私にとってはこれだけで十分である。

また別の話になるが、私は父の遺骨を食べている。私は父が大好きだった。血が繋がっていなくても難しい思春期は訪れ、ギクシャクした時期もあった。それでも大人になってからは本当の親子のような関係を築けたように思う。でも後悔もたくさんある。だから、自分への戒めではないけど、体の中に父を取り込むことでいつでも一緒にいられる気がするし、良き行いによって父への償いもできるのではと考えて食べた。

ただ、母親のは食べていない。なんだかそういう気分ではなかった。というか、本当にあの遺体が母だったのか未だに信じられないからだ。もちろん遺品はある。遺品整理もしたし母の最期の住処だった部屋も私が片付けて直して鍵を大家さんへと返した。母の死は本物なのだろう。でも全くの別人だった。だから遺骨を食べることはできなかった。

両親の最期はあまりに唐突で、納得できる親孝行なんかしてあげられなかった。だから今日、仏壇をきれいに片付けながら謝罪した。「こんな汚くなるまで放置してごめんね」と。

こまめにお線香や水、ご飯などはあげていたけれど、忙しさにかまけてなにもしてあげられなかった。

『結局死んでもそうなのかい!』と言われても仕方がない。だから、今日からはきれいを維持しようと思っている。なにもしてあげられなかったんだから、それくらいはしてあげたい。

後悔先に立たずなんて言葉がある。実際、私は身をもって感じたし感じ続けている。

でも、後悔から見つかることも少なくない。なんなら多いかもしれない。後悔しない人生を送れるならそれが一番良いが、後悔しないと見つからないこと、気付かないこともごまんとある。

今、後悔しかない人生を生きる私から言えること。それは"後悔先に立たず でもきっかけになることはある"だ。

後悔によって視点や考え方が大きく変わることがある。後悔したことで腐ってしまうのではなく、視点や考え方を切り替えてこれからの自分の人生をどうするかが大切だと考えている。親は一生生きているわけじゃない。それは自分だって同じだ。順番的に親が先だろうが、そうじゃないときだってある。

この記事をきっかけに後悔しない人生を歩みつつ、後悔したときはどう踏ん張るか、どう生き続けるかを考えるきっかけにつながればうれしい。