【読書感想】少女は卒業しない/朝井リョウ
本屋さんでちらちらと見て気になっていた作品。
偶然、この映画を見に行くことになって、
その映画があまりにも良かったので、
すぐに本屋さんで原作を買いました📕
映画では、取り壊しが決まった高校の
卒業式前日と当日を舞台にした群像劇として
4つの恋を取り上げられていました。
学生の時は、分かりやすい節目として『卒業』があって
皆で同時にその節目を迎えて、晴れやかな気持ちと
名残惜しさと感傷とで、いつも通りでいることも難しかった
落ち着けないイベントを過ごしたものだ……と
懐かしく思い出しました。
大人になると、皆で同時に迎える分かりやすい節目は
ほとんどなくて、だからこそ『別れ』が曖昧になって
「あれが最後なら、話せばよかった」ということも
多かれ少なかれある気がします。
大人になってから見る『卒業』は、そういう事情もあって
少しだけ羨ましくもありました。
お互いに「これが最後」という自覚があるって
なかなか無いことなのだと思います。
映画ではより焦点を絞ってすっきりと描かれていましたが
小説ではもっと丁寧に『別れ』と向き合う学生たちを
見ることができました。
そんな、小説の感想を読書記録として書き残します✍️
※本文を引用しながら、感想を取り留めもなく綴ります。ネタバレになる可能性が高いのでご注意ください。
屋上は青
絵に描いたような優等生の孝子と、
事務所での仕事を選び退学した尚輝。
卒業式の前に、立ち入り禁止の屋上で喋る2人。
幼なじみだからかもしれませんが、
孝子は尚輝のことを決して否定的に見ません。
中学生の時、尚輝は
ジムショに所属していて、
他の男子みたいに悪ぶったりしなくて
なんだか特別な男の子だと、
周りから肯定的に見られていました。
でも、高校生になると
進学校にいながら、勉強をほとんどすることなく
事務所の仕事やレッスンを優先している尚輝は
周りから冷ややかな目で見られるようになります。
「芸能人にでもなるの?」なんて嘲笑じみた周りの言葉に
孝子は何も言えずにいました。
……何も言えないけれど、孝子は決して尚輝を
否定的に見たりしませんでした。
むしろ応援していました。
周りの評価がどう変わろうが
尚輝は懸命にダンスを習得していて
それを孝子は応援していました。
その2人の姿勢はこの屋上でも決して変わりません。
尚輝が「孝子は俺に無いものを全部持ってる」と言った、
それを孝子は肯定的には捉えられないのです。
孝子はずっと、尚輝が眩しかったのです。
憧れだったのです。
だから、尚輝にあって自分に無いものが悲しかった。
尚輝になくて自分にあるものは、些細だと思ってしまう。
自分が持っているものは、皆が持ってるものだと言い捨てます。
それを尚輝は否定しませんが、肯定もしません。
(そして私も肯定できません)
孝子は、尚輝は「あちら側の人」と思っていて、
自分は「こちら側の人」と思っていて、
そこに明確な隔たりがあると感じていたと思います。
尚輝はこちらからあちらへ、いとも簡単に行ってしまえる。
でも自分は、あちら側へなんて絶対に行けない。
そんな勇気も自信も無い、と最初から諦めています。
住む世界が違う、という感覚かもしれません。
孝子は自分を凡人と位置づけて、その枠から出られないと
諦めているように見えます。
それに対して、尚輝だって不安はあったはずです。
孝子から見ていとも簡単に違う世界へ行ったように見えても
(或いは、ほかの人たちから見てもそうかもしれません)
尚輝だって葛藤があったはずなのです。
周りの冷ややかな目にダメージを負う可能性だってある。
皆から見えない場所で、皆が知り得ない苦労をしている。
孝子の羨望の眼差しだって、ひょっとすると
「自分はもうそっち側へ行けない」という隔たりを
無意識に感じさせる可能性もあります。
進路選択は、同じ枠にいた人達との分岐を示唆します。
学生時代から何度も分岐を重ねて、
気づけば友人たちと全然違うところで活躍したり
生活しているようになります。
尚輝の分岐は、人よりも少し早くて
人よりも大きく方向が違う、というものであって
孝子や周りの人達だって、分岐先は尚輝と違うとしても
いずれは経験するかもしれないものです。
でも、真っ先に発生した分岐が身近なところで起きると、
それだけで大事件のように思えたり
不安を強く感じるのだと思います。
今でこそあまり動揺しなくなりましたが
学生時代は友人たちの進路にいちいち反応して
勝手に寂しくなったりしていました。
次の場所へと進んでいく勇気を眩しく感じたり
いつまでも停滞している自分を情けなく思えたり
見えている世界や接している人達が限られているからこその
独特の不安だったように思います。
そして当時の私は、孝子のように
「あの人も不安なんだ」なんて思えていませんでした。
生活の主軸を自分にしか置いていなかった、
幼かった自分を思い返して、少し恥ずかしくなります。
昔自分が感じていた心の不安定さを思い出す物語でした。
懐かしいなぁ……。
ふたりの背景
一番好きかもしれません。
物語でしばしば『告白スポット』として現れる
東棟の壁画を描いた正道と、
そんな彼を美術部に誘ったあすか。
2人の別れのお話で、思わず泣いてしまいました。
転校生としてやってきたあすかは、
本当に些細なことでクラスのリーダー格から嫌われ
クラスに馴染めずにいました。
しかし、彼女には美術部という居場所がありました。
そして、一緒に入部してくれた正道がいました。
彼女を嫌うリーダー格の女子が、
美術部に入部したことがあります。
正道が、その女子の絵を描かなくてはいけなくなった時
正道はその女子ではなくて、あすかを描きました。
そして彼は慎重に言葉を選んで伝えました。
「僕の目にあなたは、映らなかった」
あすかは、正道に対して信頼を置いていました。
「正道くんの目はいつも真実を捉えている」と。
リーダー格の評価ひとつで、あすかと仲良くするかどうか
あっさりと決めてしまうクラスメイトと違って
正道は正道の判断で、あすかと一緒にいました。
そして、あすかも周りがどう言おうと
(正道の知的障害を知っていても)
正道と一緒にいました。
周りは周りであって、
自分の判断には関わらせない。
2人のそんな姿勢が眩しく見えました。
少し話が逸れましたが、
「真実を捉える正道の目」に、
リーダー格の女子は映らなかったのです。
そして正道は「目に映った」あすかを描きました。
あすかの心を励ますのに十分でしょうし
あすかの居場所を壊そうと思っていた
その女子の心を折るのにも十分だったでしょう。
そんな正道とあすかは
高校卒業とともに、別々の進路を歩みます。
正道はパン屋、あすかはアメリカへ行きます。
その将来の話になって、正道は「僕はふしぎなんだ」と
あすかに繰り返し伝えます。
そしてあすかをやや強引に、東棟の壁画まで連れていきます。
東棟の壁画は、正道と、今は亡き母の絵でした。
男女が手を差し出しあっているように見えるその絵は
実はすれ違って歩く決別の絵でした。
その壁画の前で、正道はあすかに
「アメリカから帰ってきたあすか」のスケッチを見せ
あすかは「また会いに来る」と約束します。
あすかは、正道が絵を残すのは
誰かとの別れを受け入れた証だと解釈しますが
なんとなく、正道の絵は
「誰かとの別れをこう受け止めたい」という
願望の表れでもあるのではないかと思います。
母が亡くなって、自立して生きていく未来への覚悟が
東棟のあの壁画で。
あすかと離れて自立して生きていくけれど、
その生活の先にあすかとの再会があって欲しいというのが
スケッチブックの絵なのだろうと思います。
『卒業』は『別れ』を生み出すものですが
その『別れ』で最後にしないために、再会を約束する人も
いるのだと思います。
正道とあすかのように。
『別れ』が関係の断絶に直結しないこの物語が
私はとても好きです。
『別れ』が分かっているのなら
最初の方にも書きましたが、『別れ』が明確なことって
大人になると少ないと思います。
死別はありますが、その時がいつか分かっていることなんて
ほぼ無いに等しいので
「この日を境にもう会わない」という『別れ』は
希少だと思います。
(恋人との別れは、その点はっきりしていますが)
『卒業』を機に会わなくなった子達は沢山居ます。
忘れ去ったわけではありません。
折に触れて思い出しますし、元気でいたらいいなと思います。
自分の『卒業』の時を振り返っても、
一応は、悔いのない別れができたと思います。
もっとちゃんと、言葉を尽くして
感謝を伝えたかった人もいますが
後悔にまで至っていません。
『卒業』を迎える人達が多いこの時期、
皆が悔いのない形で別れられていたらいいなぁと思います。
そして、明確な形での『別れ』がなくなって
まさかあれが最後だなんて思わなくて
悔いの残る『別れ』ばかり積み重なりがちな大人たちは
どうしたらいいのかなぁと思わされました💭