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ニンフと夏草
匂い
ふとした瞬間に自分の匂いを理解する。
多くは長い留守から帰ってきて玄関を開けた瞬間だ。とっさに他人から感じた自分を窺い知る。それを良いとか悪いとか判断するまでには至らない。混乱のまま二呼吸目には慣れてしまって、もう一度扉を閉じて開いてみても、ただ閉め切った部屋の少し埃っぽい空気を吸い込むだけになる。それは、夕方廊下から寝室に振り返った瞬間だったりもする。「あ。」と気づいた瞬間には、瞬きと同時に思い出そうとしてみても何故か溶けてなくなってしまう。
私が彼の匂いに虜になったのは、3年前の春先だった気がする。
「俺ん家にみんなでまた来いよ」と言う共通の友人を通じ、彼の狭いキッチンになんとなく4、5人で集まった。瓶ビールを開けて、椅子が足りなかったので、カウンターに寄りかかり、なんとなく輪になり、ゆるっと内容があるようなないような話をした。まだ隣の人の会話のテンポに慣れてない私たちは、強張りながらも少し空気の抜けたバランスボールのようにだるんだるんとその場の冗談に笑いあった。ジリリと呼び鈴が鳴り、人は一人一人と増えていった。
ついにキッチンには人が収まらなくなり、数人は居間へと移動した。
「ちょっとごめん。」
会話には少し控えめだった長身の彼が私たちの間を通った。夏草の匂いがした。
キッチンパーティーの友人はいつも強いパルファンを付けている。トイレに行くとそれの大きい瓶がドンと置いてある。それは紫の薔薇のような匂いがする。実際、紫の薔薇がどんな香りなのかは知らないが、焦茶の髪の毛と光の入らない目の色にとてもよく似合っていると思う。
その夜、仲良くなった女の子は白くて薄い肌と灰色がかった青い瞳が印象的だった。窓辺で身震いし、タバコに火を付けながら「私はずっと騙されてきた。男はみんなくそ。でも、いつか白馬の王子様が私を迎えに来るのを待ってるの。」といたずらっ子のように笑った。レザージャケットから香る強い魔法のような香水と口から吐き出すタバコの煙は夢見るようなその目つきとちぐはぐで魅力的だった。
彼はこんにちは、とさようならの、挨拶のハグの時にだけ、ぐんと、香りが近づいた。
肩や裾に残った夏草の露はその日も次の日もまとわりつき、離れなかった。
紫の薔薇も、魔法も離れるとすぐに忘れてしまう香りだったのに、彼の夏草だけは離れず、まるで小さな花をポケットにねじ込まれたような気がした。
花は萎れるまで時間がかかり、私はニンフのように鼻先で踊り狂う香りに頭が狂わされたのだ。
枯れた今は押し花にして、その時の心の日記の一章を彩る栞として使っている。
冬が近づく寒い今日も、色鮮やかにその時の高揚感は思い出される。
これは2022年に作った「なつの匂い」という曲のことです。