読書室の窓辺から(10)
※この記事には、本のネタバレを含む内容が書き連ねてあります
こんにちは。富岡です。
こちらは、課題図書型読書会「対談読書室」の10回目「課題図書『ふたりのロッテ』を語り合う(3)」の振り返り記事になります。
参加人数
・スピーカー :3名
・リスナー* :1名
*スピーカーによるディスカッション中は聴き手に徹し、読書会の全体の振り返り時に任意で発言可
読書室の風景
『ふたりのロッテ』の課題範囲を読みながらの反響をご紹介していきます。
スピーカー・リスナーから、様々な気づき・感想が寄せられました。
一部抜粋してご紹介します。
前回範囲を再読してみて
第1章を読んでの、「何故、書籍のタイトルが『ふたりのロッテ』なのか」の疑問が、第2章の食堂の場面で2人が同じ「おさげ」姿で登場するのがタイトルを考えるうえでのヒントになるのではと思った。
2人(ロッテとルイーゼ)に対しての先生達の反応の違いが印象に残っている。写真家のアイペルダウアーさんの対応を止める人が誰もいないのも印象に残っている。アイペルダウアーさんは誰にも止められないので、今後、どういう展開になるのか気になる。
「停戦はほんものだっただろうか」という前書きがあり、「2人は目を合わそうともしなかった」という記述もある。2人のギクシャクとした緊張感(恥じらい?)がとても伝わってくる。そんな状況下で、足踏みしながらルイーゼが接触を図ろうとしているところに、ロッテが精一杯の微笑みを投げかけるのが印象に残っている。
毎回の振り返りで、前回の疑問を振り返ることができる(「この部分はどのような意味なのだろう」という素朴な疑問を出し合える)のが、全員で1冊の本を読む読書会の良いところだと思った。自分ひとりでは気づけないところに毎回気づけてよいと思っている。
「おさげを編む・ほどく」という髪型の描写が、やはり、この作品の「規範に従う」・「子どもらしい自由さ」の象徴になっているように感じる。
地の文に、たびたび登場している「ぼく」の視点。双子を温かく見守る「やさしさ」の象徴なのかも(?)。今後の読書会で徐々に明らかになったらいいと思った。
「ウルリーケ先生の恋愛描写」について。ウルリーケ先生が「大人の恋愛」をしていることが、後々、子どもたちが自分の親の結婚や離婚について考えを巡らせることの導入になっているのかも知れないと思った。
「停戦と和平」について。ロッテとルイーゼの2人の「停戦」は、自分のなかでは、まだ続いているという印象。「和平」に関しては、ロッテとルイーゼの2人に関しては「仲直り」という部分で解決していると受け止めている。が、ロッテとルイーゼの親たちも含めた「和平」は、未だ続いている印象。
ロッテとルイーゼの「わたしたちのお母さんね」という場面。無断で写真をロッカーに仕舞おうとするルイーゼに、ロッテが「あなたにあげる」と言ったときに「和平」が成立している気がする。
子どもたちを見守る「自然(第1章の月や小人)」や「ぼく」などの「見えざる何か」の視点について考えさせられる。子どもたちを見守りながら、執筆活動を続けた「ケストナー自身の戦争体験」も影響しているのかも。(どんな時でも、「(あなたを)見守っている存在がいるよ」と伝えたかったのかもしれない)
穏やかな語り口で、戦争に関わるような用語である「停戦」「和平」がサラッと入っていることに驚きつつも、物語の視点(地の文の「ぼく」など)からは、戦時中にありがちな「嫌な視線(監視など)」は感じない。
今回範囲を読んでみて
第3章の前書き(詩?)の「新大陸発見」「半分こされた名前」が表現としておもしろく、「子どもを引きはなしてもいいか?」という一文にはハッとさせられた。母親の名前が「ルイーゼロッテ」だから「半分こした」というのは、舞台となるドイツ語圏では珍しいのではないかと思えて、興味深い。(日本語圏では、親の名前から「1文字もらう」のは珍しくはないが、ドイツ語圏では聖書上の名前や守護聖人の名前が、名付けに用いられている印象が個人的にはある)
49ページ、「ふたりの秘密に近づきすぎた人は、こっぴどくだまされる」「あのまじめなロッテが、このことをちっとも悪いと思っていない。これはよっぽどのことだ。」について。
子どもながらの、「『秘密』を持つことで得られる結束感」や、「わたしたちの『秘密』に侵入してくるなら、子どもとして仕返ししてやる」と「子どもらしさのある『秘密』の遊び」だと本人達は思っている、という暗示なのではないか。
「人をだます(嘘をつく)」ということを道徳として「悪いこと」と認識してるであろうロッテが「このことをちっとも悪いと思っていない」。このことが、ロッテとルイーゼの「秘密(2人は実は双子である)」ことを隠してきた両親への「怒り」の深さを表している、と個人的には思った。
「新大陸」「2つの半球」という表現について。毎日、「地球上で初めての発見」をしているのが子ども。そのことを的確に表している表現だと思った。
53ページあたり。ルイーゼとロッテと父親が、少々恩着せがましい手紙とともに登場。2人にとっての父親は「すてき」な存在。「ほんとうの、生きているお父さんがいると、こんな気持ちがするのね(52ページ)」という言葉にハッとさせられる。
54ページ。シュテッフィーが静かに泣く場面。子どもというものは、大声で泣くのが健全なので、「静かに泣く」は(子どもとしては)異常な事態。それを感じ取った子どもたちの反応(大人達を観察している様子)が、よくケストナーが観察して描いてくれていると思った。
ルイーゼとロッテの「わたしたちはただの子どもよ」「ただの?」という台詞について。仲良くなってから、2人の見解がここで初めて分かれている。このことが珍しく感じられる。
子どもの権利を考えるスタート地点がここに設定されていると感じた。
ルイーゼは、ここで自分たちの両親の「理不尽さ(離婚したこと、自分たち双子を引き離したこと)」に対して怒りを表現している。ロッテは、「わたしたちはただの子ども(なので、理不尽には耐えねばならない)」とたしなめているが、ルイーゼは「ただの?(わたしたちは、両親の実の子どもなのだから『ただの子ども』ではないし親に対して子どもとしてモノを言う権利がある)」と怒っているように感じる。
歌のような導入の前置き。物語に入るための「案内」の役割を果たしている。その中と、本文(地の文)に時々でてくる疑問形のリズムが、興味深い。欧州特有の「わらべ唄(現地での、子どもたちにとってのなじみのある表現)」のような響きなのだろうと思った。
日本でも、西欧でも、「子ども」が「大人未満の、ただの未熟な存在」が当たり前の価値観であった時代。ルイーゼは、「子どもの権利」に気づけている。その時代にケストナーがこの作品を書けたのがすごい。
今回残った疑問
(読み進めるうちに解決させたい疑問点)
49ページ、「ふたりの秘密に近づきすぎた人は、こっぴどくだまされる」「あのまじめなロッテが、このことをちっとも悪いと思っていない。これはよっぽどのことだ。」について。何故、2人は「ふたりの秘密」にしているのか。
ケストナーは、何故このようなテーマの小説を書いたのか。(現段階で推察するのには早すぎることは承知だが、「戦争」に発展しかねない「人と人との諍い」を、子ども相手に丁寧に読み解いていくことで、ケストナーが伝えたかったメッセージが何かあるのではないか)
読書室からのお知らせ
次の課題範囲について
岩波少年文庫より、『ふたりのロッテ』エーリヒ・ケストナー(池田香代子 訳)を課題本とします。
23/04/16(日)までの課題範囲は、第4章(48~57ページ)です。第3章の振り返りも行いますので、第2章も再読のほどよろしくお願いいたします。
次回の活動予定について
次回は、23/04/16(日)の10:00~12:00の予定です。
欠席連絡は、Discordサーバー「対談読書室」の「フリートーク」、または、富岡のTwitterのDM宛てにお知らせくださいませ。