読書会 #素人だけど哲学したい での気づき(1)
※この記事には、本のネタバレを含む内容が書き連ねてあります
※この記事は、課題図書型読書会「第1回 素人だけど哲学したい」における、参加者とのお話のまとめになります
※「第1回 素人だけど哲学したい」の資料はこちらのリンクからご覧になれます
課題図書:『はじめて考えるときのように-「わかる」ための哲学的道案内』野矢茂樹/文・植田真/絵(PHP文庫)
参加者それぞれの気づきの共有
「考えているとき、何をしているのか」改めて問われて動揺した。本章を通して、考えるにあたって、「特別な儀式・行為」「常に有益なことを考えなければならない」ということは、必ずしもない。自分は「考えること」に前向きになれた。
「睡眠中にでも無意識に考えている」「普段何気なくしていて目に入っているのに見えていないことが無数にある」「答えの候補がいつでもつかまえられるようにぼくは自分をチューニングしている」という3つの言葉がとても印象に残った。
すごく簡単な文章から「考える」ことは何だろうということを考えさせられて、(ある意味)難しかった。
色んなことを考えて、物事の繋がりや関係性を求めていくことが「哲学する」ことなのかなと思った。
「クレヨン」のなぞなぞが印象に残った。
1章の中でも、哲学史的な流れがサラッと書いてあって、驚きながら読んだ。
「簡単なことなのに難しい」という新鮮な感覚を味わいながら本文を読んでいた。普段、自分が「考えていない」ように感じた(自分と相手との「常識」に支えられて日常を送っているように感じた)。
考えることは「恋をしていること」に似ていると感じた。(考えることから「逃れられない」という点が。)
「考えること」とは、「(問いについて)頭の隅から離れない」ということなのかと思った。考えることは、問いが立っていることが前提。その問いの立て方については次の章(次回範囲)に書かれているようだ。
思想家の話を思い出した。「思想」について知っているのではなく、「考え続けている」人である、というようなエピソード。
「如何に自分が考えずに話していたのか」、という感想が興味深い。最近、文章を書くようになった。その講師の方がベイトソンの哲学のエピソードがお好きなので、興味を持って読み始めている。
考えることで生きやすくもなるし、生きづらくもなるな、と感じた。
本書のあらゆるところに、哲学史のエッセンスが詰まっている。(※詳しくはDiscordの「読書会振り返り資料」チャンネルをご参照ください)
自分の経験からのエピソード。人に「教える」仕事をしてきた。日常会話だと、自然に「何も考えずに語る」ことをしていたが、「教える」ときには相手にイメージを持ってもらえるように伝えている。その時の自分は「考えている」かもしれない。
「わかるようでわからない」という感想、「考えることで生きやすくも生きづらくもなる」ということに共感した。「日常に問いが転がっている」という話も、その通りだと思って聞いた。
第1章を読んでわからなかったこと:最後の「くまのプーさんの詩」の意味がよくわからなかった。「わからなさを抱え続けること」が大事なのかなと思った。
「何も考えずに喋っている」・「恋のように(考えることに)囚われている」、野矢茂樹氏の言いたいことを言い換えている。
自分は、「考える」ことを「常識などを正しいかどうか考えること」と受け止めた。SNSなどを見ていると、既に問いが設定されていて、その社会問題などの問いに自分はどう答えるかを求められている気がする。これが自分にとっての「考える」のイメージだった。
「何も考えずに喋っている」。挨拶レベルでは何も考えずに喋っているかもしれないが、会話レベルに応じて「考えている」ことはグラデーションがあるように思う。
第1章 小見出しまとめ
1.「考える」って何をすることだろう
何をすればいい?
ちょっと問題を二問
ずっと考えている
思索にふけった数学者
さっきの問題の答え
穴ボコだらけ
「考えてる」と「考えてない」の違い
耳を澄ます
ヘウレーカ!
何をしたっていい
コップと飲み物の関係
いつもと違う顔
考えないでいられたら