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読書室の窓辺から(11)
※この記事には、本のネタバレを含む内容が書き連ねてあります
こんにちは。富岡です。
こちらは、課題図書型読書会「対談読書室」の11回目「課題図書『ふたりのロッテ』を語り合う(4)」の振り返り記事になります。
参加人数
・スピーカー :4名
・リスナー* :0名
*スピーカーによるディスカッション中は聴き手に徹し、読書会の全体の振り返り時に任意で発言可
読書室の風景
『ふたりのロッテ』の課題範囲を読みながらの反響をご紹介していきます。
スピーカー・リスナーから、様々な気づき・感想が寄せられました。
一部抜粋してご紹介します。
前回範囲(第3章)を再読してみて
(再掲)前回残った疑問
・49ページ、「ふたりの秘密に近づきすぎた人は、こっぴどくだまされる」「あのまじめなロッテが、このことをちっとも悪いと思っていない。これはよっぽどのことだ。」について。何故、2人は「ふたりの秘密」にしているのか。
・ケストナーは、何故このようなテーマの小説を書いたのか。(現段階で推察するのには早すぎることは承知だが、「戦争」に発展しかねない「人と人との諍い」を、子ども相手に丁寧に読み解いていくことで、ケストナーが伝えたかったメッセージが何かあるのではないか)
前置きの文から内容が発展していった。前置きの中の「新大陸」・「秘密」という単語がキーワードだったと思う。「子どもの視点の体験」・「子どもが秘密を持つ権利(≒自由の権利)」が第3章の中心となる大切な内容だったと感じる。
再読して印象に残ったのは、章の最後の「わたしたちはただの子どもよ」「ただの?」というやり取り。
「停戦」「和平」「秘密」という言葉が印象に残った。何故ケストナーがこの話を書いたのか。それを考えるために、高橋健二訳の「ふたりのロッテ」と読み比べていた。この訳者の解説に、「何故ケストナーがこの話を書いたのか」関係する興味深い内容が書かれていて勉強になった。
「新大陸」「半球」「全世界」など、ロッテとルイーゼが地球規模の捉え方をしているのがおもしろい。ケストナーが、子どもの世界観(視点)をよく表していると思った。子どもにとっては、自分の周りの人間関係が「自分がいま見えている世界のすべて」であることを的確に表している。
親たちがロッテとルイーゼを引き離したことについての彼女たちの反応。「ほんとうは別々にしていいかどうか、わたしたちに聞くべきだったのよ」という台詞には、子どもにも「自分たちを対等な存在として見てほしい」「対等に扱ってほしい」「個人として尊重してほしい」という意志があることが、反映されている。
「わたしたちはただの子どもよ」「ただの?」のやりとりについて。ロッテは大人びた性格で、自分の限界を「わきまえている」子ども。自分の可能性に限界を感じて現状をあきらめている。一方のルイーゼは、自分の可能性の広さを自信をもって感じている。
児童文学が課題図書になってから、文章自体は読みやすくなったが「(読書会への参加が)ラクになった」とは思っていない。どの章も、どの文も、興味深い。
ロッテとルイーゼのやりとりについて。もしかしたら、1人の子どもの脳内の「もうひとりの自分との自問自答」を、双子の姉妹という2人の登場人物の体裁をとって表現しているのかもしれないと感じた。世の中を理解するにあたって、子どもたちに対して「疑問をもって身の回りをみよう」ということをケストナーは伝えたかったのかもしれない。
離婚した両親についてあれこれと考えを巡らせているロッテとルイーゼ。双子のきょうだいは、同じ課題について、同じような立場から違う意見を交換しなから悩むことができる環境。だから、ケストナーは双子が好きなのかもしれないと思った。
もしも、ロッテが「ひとりっ子」だったら。もしも、「ひとりっ子のロッテ」の頭のなかにルイーゼみたいな存在がいたら。子どもにとって、「疑問をもつ」ことは、(「何がわかってないか」がわかっていないので)ハードルが高い。この物語を通して、子どもに対して「考えの深め方」のヒントを伝えていると思った。(あなただったらどう考える?ロッテの立場だったらどう思う?ルイーゼだったら?…という具合に。)
何度か、ロッテとルイーゼの疑問として「なんで両親は同居していないのか」が持ち上がっている。当時の2人は幼かったが、今はいろんな事情があるのを理解できる年頃。当時の事情はさておいて、現代の感覚では子が「離婚後も、互いの親に会いに行きたい」と思ったら、親が機会を作ることが努力目標のようになっている。「親の離婚」は、子どもにとっては大きな出来事。ロッテとルイーゼにも、シュテッフィーにも、親がきちんと話す機会を設けてほしいと思った。
作品全体を通して、ケストナー自身の子どもに対する温かいまなざしを感じる。大人にとっての「子どもに寄り添う」とは何か。ほかの私的に読んだ作品と比べながら考えた。
ルイーゼとロッテの名前の由来について。母親の名前を「はんぶんこ」して名づける。現代日本の感覚と違うので驚いた。
自分の子どもの頃、なにか気になることがあっても、「これは言ってはいけない」と内に押し込めてしまうこともあった。この作品の中のロッテとルイーゼは、その「言ってはいけない」を自分の内に押し込めず、2人で語り合っている。いいな、と思った。
「ふたりのロッテ」は、自分の子ども時代の視点と、そして「親になった自分」としての視点とで読んでいる。「ふたりのロッテ」は違う環境で育った子どもの対話を通して、主人公の2人が様々な角度から物事を考えている。読者である子どもたちに、考えを深めるヒントを与えている。
子ども全般について。「自分の意見」を持てたとしても、それを主張しようとすると「子どものわがまま」として捉えられてしまうことも多いので、難しいと思った。大人たちの「子どもに対する誠実さ」が問われていると感じた。この作品で言うと、ロッテとルイーゼの両親が「どのタイミングで真実を告げるか」「どのように伝えるか」。
「ふたりのロッテ(高橋健二・訳)」の読書会もしたいと思った。
今回範囲を読んでみて
毎回の前書きが、今回もおもしろいと思った。今回の前書きは「児童文学ならではの可愛らしさ」が魅力的だと思った。ルイーゼが「お料理が恐怖」と言っっていたり、ロッテが「あなたがよりにもよってオムレツが好きなんてねえ」と(ロッテにしては)珍しく、ぶつくさ文句を言っていたりするのもかわいい。
この章を読みながら、表紙の「ロッテ」と「ルイーゼ」は、この時点で既に「入れ替わっている」ということに気づいた。表紙の時点から、ロッテはルイーゼで、ルイーゼはロッテなのだ。
ルイーゼが「お母さんの好きなスープのつくりかた」を、お互いの好物の情報共有よりも先に行われているのが、9歳にしては健気だと感じた。ケストナー自身の幼少期とも重ね合わせているのかもしれない。
機関車が出発する場面。「違う方向へ進む」という状況が、いよいよ物語が動き出すのを感じさせる。
この作品を通じて、「比べられること」を自分の幼少期と併せて考えさせられた。自分自身ときょうだいとの比較、他所の子どもとの比較。「ふたりのロッテ」では、「自分の育った環境」を入れ替えるので、お互いが「自分の家」を外から見つめる機会がある。珍しいことなので、今後の展開がたのしみ。
4章で、2人がお互いの状況をメモしてるのにワクワクしていた。自分の子ども時代で「有名人と入れ替わったら、どうしよう。バレないように暮らさなくては」と想像してワクワクしていたのを思い出した。
「親の言いなり」ではなく、「自分たちの未来を自分たちで切り拓いていくんだ」という自立心がロッテとルイーゼのなかに芽生えているのを感じた。これからの展開を見守りたいと思った。
59ページ。ウルリーケ先生が「それはそうと、巻き毛ちゃんとおさげちゃんはどこに行ったの?」という場面。すっかり、みんなと「巻き毛ちゃん」「おさげちゃん」と親しまれているのだと思った。(2人にとっては、それも「たくらみ」のうちなのだが…。)
お母さんの好きなスープ。自分の子ども時代を思い起こした。
63ページ。ロッテとルイーゼが、お互いに、お互いの「違い」を確認しあう場面。「おやすみのキス」の話。今まで、片方の親としかできなかったあいさつのキス。「もう片方の親」から受けられなかった愛情を、ロッテとルイーゼがそれぞれ受け取れることの喜びを感じているところに、思わず感涙してしまった。子どもなりにリスクを感じつつも「やるんだ」と決意しているロッテとルイーゼ。2人の意志の強さを感じるとともに、読者の子どもたちには「子どもでも、真実の追求をしていいのだ」というエールを送っているようにも感じている。
これからの物語の展開を感じさせる第4章だった。ケストナーは、劇的な展開を突然持ってくるのではなく、丁寧に、順を追って、登場人物の心情や周囲の状況を描いている。丁寧な記述をしていく作者さんだと思った。子どもの心理描写をするにあたって、「夢」や「想像力」という小道具を上手に使う様子は、「飛ぶ教室」や「点子ちゃんとアントン」でも見られれると感じた。
第4章で、「ああ、あのふたり組(中略)またどっかの草の上にすわっているんじゃないですか?(中略)おててつないで」と、モニカがロッテとルイーゼの仲の良さに嫉妬する場面。ロッテとルイーゼの2人の「たくらみ」がうまくいっていることを感じた。モニカやほかの子どもを出すことで、ケストナーがほかの子どもと対比させている。ロッテとルイーゼが新しい局面を迎えているが、モニカほかの女の子たちには、このひと夏にどんな変化があったのだろう。モニカ視点のスピンオフ作品があれば読んでみたいと感じた。
全体を読んでいて。自分が子どもの頃に、「あなたはまだ子どもだから」と私の意見を聞かずに物事を進められていくことが嫌だったことを思い出した。
この物語の「ゆっくり」としたテンポ。とても安心する。
66ページの機関車の発車間際の場面の節回し。子どもを楽しませる、どきどきさせる話術で、おもしろいと思った。自分の子どもにも読み聞かせしてあげればよかった。一方で、子育て中の親は疲れ切っていることも知っている。現代日本の、子どもや子育て中の親を取り巻く育児環境について思いを馳せた。
全体の感想
子どもの成長を描く児童文学は多いが、その主人公はだいたい10歳以上であることが多いように個人的には感じる。その個人の感覚からいうと、9歳と数ヶ月のロッテとルイーゼは「若い」。その年齢で、ロッテが家事を担うことでお母さんのサポートをしているのを考えると、ロッテは苦労人なのかもしれないと思った。(家事をするためにおさげもきっちり編んでいるのだろうなとか、だからこそ真面目な性格になっていくのだろうなとか、考えさせられた)。一方のルイーゼ。夏休みの間に料理を忘れたことにしようとする、「マイペースさ」「自分を他人の枠に収めない自由さ」を感じた。
この作品が書かれたのが、第二次世界大戦のあと。ケストナーが「書けなかったこと:戦争」についても思いを馳せた。
困ったことは局留めの手紙でやりとりをする時代。その距離感・温度感がいいと思った。現代の、なんでも携帯でやりとりできる時代の良さも感じつつ、当時の「ひとりの時間」を大切にする時代背景もいいなと思った。
読書会で1章ずつ丁寧に読み進めることで、毎回新しい気づきや視点があるのがいいなあと思った。「ふたりのロッテ」を読み進めながら、自分の中の「子どもの視点」「大人の視点」を気づきなおす・見つめなおす機会になっている。
読書室からのお知らせ
次の課題範囲について
岩波少年文庫より、『ふたりのロッテ』エーリヒ・ケストナー(池田香代子・ 訳)を課題本とします。
次回までの課題範囲は、第5章(68~82ページ)です。第4章の振り返りも行いますので、第2章も再読のほどよろしくお願いいたします。
次回の活動予定について
次回は、2023年5月28日(日)の10:00~12:00の予定です。
欠席連絡は、Discordサーバー「新・対談読書室」、「読書会のお部屋」の「出欠連絡」チャンネルにてお知らせくださいませ。
副読本について
岩波書店「ケストナー少年文学全集6 ふたりのロッテ」(高橋健二・訳)を、副読本(購入は必須ではないが、一読することをメンバーに勧める本)に指定いたします。
「番外編:対談読書室 『ふたりのロッテ』を読み比べる(仮称、2024年夏開催予定)」に参加されたい方は、池田香代子訳と読み比べておいてください。よろしくお願いいたします。