白雨
急に暗くなったかと思うと、雨が降ってきた。前が見えないくらい、激しい雨だ。男は、駆け出した。とりあえず、軒先で雨宿りしなければ。
男は、ようやく見つけた小さなお堂の軒先に飛びこむ。その時には、もうびしょ濡れだった。懐にある手拭いを取り出すも、それもびしょ濡れだった。
「ちぇっ、手拭いが絞れるくらいびしょ濡れじゃねえか。いきなり、土砂降りだもんなあ。ちいっとは手加減してくれよな。」
軒先から見上げれば、白い線が隙間なく降ってきていた。男は、ため息をつく。
「勘弁してくれよ。まるで、滝じゃねえか。俺は修験者じゃねえつうの。」
背中でくすりと笑う声がした。振り向くとお堂の扉が少し開いていた。押し開くと、薄ぼんやりとした中に人影が見える。目を凝らして見ると、女がいた。髪は、おすべらかしに結い、緋の袴と白い小袖を身につけていた。顔は檜扇に隠れて見えない。
こんな小さなお堂に、不釣り合いな姿。男は警戒しつつも、好奇心を覚えた。その時、鈴のような声が聞こえた。
「そなたを笑ったわけでは、ないのじゃ。例えがあまりにも面白かったゆえ。許してたも。」
高貴な…公家の姫君かあるいは、姫宮のような話しぶりだ。なぜ、ひとりなのだろう。共のものはどこにいったのか。男は、尋ねる。
「あの、どうも、お姫さんのような話しぶりですが、お付きの方とかは、いらっしゃらないんですか。」
「実は、生まれてからこの方、屋敷から一歩も出たことがない。それで、どうしても外に出とうなって、おゆきとくらまを連れて、屋敷を抜け出しのじゃ。この辺りをそぞろ歩きをしてたら、雨が降り出しての。慌てて、このお堂に飛び込んだのじゃが、あまりにも暗いし、いつ雨が止むかわからないでのう。灯りと雨具を探しに、出かけたのじゃ。」
「…お姫さんを置いて?」
女君は、頷いたようだ。檜扇が揺れる。
「だから、わらわと一緒にいてたもれ。」
男は、女君が、いとけなく思えた。お堂の中に入る。中は、薄暗かった。視覚が、遮断されるせいだろうか、嗅覚が、鋭敏になる。なんとも言えないいい香りが、漂っている。女君が、焚き染めている香りだろうか。甘いような、溶けるような、感覚が鋭くなるような、鈍くなるような、不思議な香り。男は、おどけるように言う。
「俺のような、がさつものが寄ることは、二度とないでしょう。ま、短い間のお慰み。珍しいもん見た、と思って頂ければよろしいかと。」
女君は、コロコロと笑う。その声に、男は陶然となる。その時、いきなり雷が鳴った。雨足が一段と強くなる。
「あっ!」
女君は、男にしがみつく。女君は、男の耳元で囁く。
「離さないでたも。離さないで…」
甘い香り。包まれる。堕ちうる。堕ちる。どうなってもいい。狂うような。引きずりこまれるような。甘い香り。
男は、快楽の淵にいる。うっすらと目を開ける。雨は上がったようだ。光が差し込んでいる。艶やかな黒髪。女君の。男は、しどけない女君の体を抱き、髪を撫でる。女君は、顔を男に向ける。
女君の瞳は、とても美しかった。
…美しい三つの目で、男を見つめていた。