桜の頃
はらはら散る桜の花びら。私の意識は朦朧としている。現世か幻かわからない。もう私の命は風前の灯。この時期で良かった。かの人に一目会ってこの世を去りたいもの。何もなさず、何も残さなかった私の唯一の執着。
かの人に会ったのは、物心ついた頃だった。私の家には桜の木があった。私は、その下で桜の花びらを集めていた。桜の毛氈。花びらは柔らかく、淡雪のよう。夢中になって拾っていた。さあっと吹く風。舞い上がる桜の花びら。
気がつくとかの人が立っていた。
長い絹糸のような髪。涼しげでありながら黒曜石のように輝く双眸。薄紅の微笑みを含む唇。麗人。佳人。
男性か女性かもわからぬ風貌。この世にあるはずもない存在だった。
私はその人の元に引かれるように駆け出した。かの人は私の手を握る。
「こんにちは。」
低くて甘い声。私は急に恥ずかしくなって顔を伏せた。かの人は微笑む。
「桜の花、好き?」
私はこくりと頷く。
かの人が軽く手を振った。
桜の花びらが私のまわりを舞う。ふわふわ綿菓子のよう。
「首飾りをあげよう。」
かの人は私に桜の首飾りをかけてくれた。ほのかで甘やかな桜の香りがする。そしてその首飾りは不思議なことに、今でも瑞々しいままだ。(私の螺鈿の箱にあるたった一つの宝物。)
かの人に会った日、私は熱を出した。
そう。
かの人に会うと、私は体調を崩した。数日、大人になると数週間。(その理由はわかっている。)
かの人は桜の精、妖怪、なんでもよいが、私の生気を吸い取りに来ていたのだろう。
私は構わなかった。かの人に会えるのであれば、生気でも命でも奪われても良かったのだ。
私はかの人に魅入られていたのだから。
私は少女から大人の女性に変わる頃、自らあの人に体を開いた。
あの人は戸惑った。
「私と情けを交わせば、あなたの体により負担をかけることになりますよ。」
「いいの。それでいい。ううん、そうしたいの。」
私はあの人を抱きしめる。どこも滑らかだ。髪も肌も吐息もすべて。甘い蜜の香りがするのにどこまでも水のように清らかだ。
私の足が丸まる時、私の瞳の裏には夜に舞い散る桜の花びらが浮かんだ。鮮やかで狂おしく物寂しいあの情景。
私は実家に住み続け、独り身を通した。ただ静かに日々を過ごし、桜の時期だけ花開いた。
私は年を取り、腕の血管が浮き出て、白髪になってもあの人は私を求め続けた。あの人は変わらないまま。
あまりの我が身の醜さに私が布団をかぶったままの時、あの人は私の頬を撫でた。
「どうして隠れるの?」
「…年をとって醜くなったから。あなたは美しいままなのに。」
「あなただから、私は毎年やって来るのです。あなたはあなたでしょう。」
あの人は私の唇を優しく奪う。至福というのはこういうことなのだろう。
そして今。
桜の花が散りしだき散りしだき、舞い踊っている。私は桜の雲に乗る。うつらうつら。ふわりふわり。夢の終わりだ。
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