人間の100年
ぼくは「クマにあったらどうするか」を知りたくて本書を読んだワケではない。
クマとであうことがないからだ。
まだ、「山本美月が全裸でドアをノックしてくる」可能性のほうがありうるのではないか? と思っている。
なぜならぼくは(地方都市ではあるけれど)都会ッコであり、都会ッコだからアウトドアというものにあまり興味を持てないからだ。
キャンプとか、わけわからん。アウトドアって?
多少緑があっても、そんなものアウトドアであろうはずがない。農村が人工の自然であるように、およそ都会人がキャンプに出かけるようなところは整備された環境に他ならず、オモムキの違うディズニーランドだと思っている。
そんなアウトドアで人間性を回復することは、「つまりシンナー吸ってイキがってみせる中学生」と一緒でみっともないことだとぼくは判断している。
都会ッコにとって自然は都会にしか、ない。
小学生の頃、ぼくは1年のうちのべ1ヶ月くらいはキャンプで過ごしていたのでそう思うように至った。冬も雪の中でキャンプしていた。
指導者の指導に従ってけなげにキャンプ行事をこなしていたのだけれど、これは都会人のせめてもの抵抗で、実にいじましいレジャーだなぁといったことを感じていた。
人類は森を出て平野に暮らした。なんなら追い出されたと言ってもいい。
都市を作り、そこに住み着き、有効なバクテリアがいない環境だから風呂に浸からねばならなくなった。
そういう事態も人類という種の役割であり、なんなら「不徳の致すところ」である。
間違えてほしくないのは、農村も都市である。規模の問題では、ない。
斉藤令介だったかな、以前ハンターの本を読んで衝撃を受けたことがある。
ヒューマニズムを振り切った世界のことが、書かれていた。
世界の本当、に関する本だったと捉えています。
ハンターの語る本は面白い。根源的だ。
ハンターは暴力を行使して、生き延びる。そして、獣に負けたハンターはハンターでいられない。
知恵を使い生き延びてきたハンターの語る言葉は残酷だけど、惹かれてしまう。
彼らが分け入り、我々があとにしてきた森や海という世界を貫くルールは合理的で美しい。
そういうものに惹かれるのは、自分はおよそそういうタイプじゃないからだ。
草や木を全く見分けられない。花の名前も知らない。エンジンを美しいと思う。
にんげんが処理できる情報の絶対量は今も昔もそんなに変わらないと思っている。
金さえ払えば毎日届く新聞やインターネットで、古代のひとや農奴や阿Qなんかより、たしかにぼくらが接することのできる文字情報や画像は増えた。爆発的に。
しかしそれは本当だろうか? そもそもそれは「情報」と呼べるものだろうか?
情報とは生き延びるのに使う知恵の源泉であろう。
この木のどの部分を使えば早く火をつけることができる。この木の実を食うと死ぬ。そういったことが「情報」のはじまりである、と思っている。
だからかつて老人は「情報の海」だった。
現在「情報」と呼ばれているものは、ほぼほぼカスだと思っている。
「昔はよかった」なんて言う気はないヨ。
ぼくは現代に生きていることを謳歌していて、もう無料無修正ハメ撮り動画のなかった頃に戻れない。
ぼくはとりかえしのつかない生を生きている。
カスみたいな情報を詰め込んでウソの世界を生きている。
小さなおんなのこたちが大きくなったらアイドルやキャバクラ嬢になりたいと言っていたのも一昔前だ。
都市の給食を食い、株主たちに奉仕しちまう。
帰るところなんか、ない。
後悔したってはじまらない。この腐りをいかに楽しんで、終わるか、だ。
かといって、フェスに出かける気はしねぇな。
Mo’Funkey!
mixiのレビューより転載
★4つ
クマにあったらどうするか
姉崎等
ちくま文庫
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