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短編小説「三杯目のハイボール」

曖昧ぐらいが心地いいときがある。人生の中で出来ることが増えてきたころに、突然運命が捻じ曲がるときがある。いつの間にか僕たちは、警笛が鳴らされているにも関わらず気づかないで心のなかで、ちょっと気にするだけなんだ。

いつも通りの職場、いつも通りの天井。人材の会社で中途で働き始めてから四ヶ月が経った。最初の三ヶ月はちょっと慣れるまできつかった。それでも自分が広げてきた可能性を感じながらやりがいを持ってやってきたことは間違いない。実体験からでしか学べないことがあると、一社目の会社の上司に言われた。

今年で二十七歳になる。あっという間にアラサーに突入した俺は、何をしているんだか分からない愛想笑いがお決まりの、営業。セールスしかできないやつ、って自分では思ってる。そしてそんなやつを、心のなかで馬鹿にしている。カフェで呑気にパソコンを出して、ふりーらんすだ、こじんじぎょーぬしだなんて抜かしているやつの言葉を俺は信じない。

「たくみ、今日行くか?飲み」

転職時期が同じたった同期の根津が、天井を見上げている俺のことを覗き込んできた。こいつは空気が読めないから、金曜日の夜じゃなくて木曜日の夜に俺のことを飲みに誘ってくる。金曜日は金曜ロードショーがあるらしい。ダサい。が、嫌いになれない。

「あー、まぁ行くか。暇だし」

リクライニングが甘い椅子を起こして、軽く返事をする。暇だし、という理由をつければ大抵のことは自分が付き合ってやっている感を出すことができる。魔法の言葉だ。心の底から行きたい訳では無いが、全く行きたくないわけでもない。素っ気ない態度を取ると、こいつはすぐに傷つく。根っからの犬みたいなやつ。

会社は定時で上がれる。十九時。そこら辺のブラックな人材の会社とは違って、社長もおおらかで人当たりがいい。前職でまあまあ成績を出していた俺は、この会社にはすんなり入れた。ぶっちゃけ休憩だと思ってる。人の可能性なんて広がらないんだから、人生サボったもん勝ちだろっていう謎の理論がいつからか自分の中で芽生え、転職した。

会社を出ると、信号も渡らないで到着できる、いつも通りの「とりやんす」へ。根津は会社を出ると、かぱっと口を開けたまま歩いている。疲れたんだろう。こいつは疲れるといつも口を開けて間抜けな顔をしている。呑気なやつだ。ニュースなんてこれっぽっちも観ていないだろうし、新聞とかもご縁がないんだろうな。内心馬鹿にしている自分すらもちょっと嫌になるが、別に自分の心で思う分には何も問題ないと思っている。

「たくみ、今の彼女とはどうするん。結婚とか」

「アホか、そんな話行くまでの三分でする話じゃないだろ」

「そか」

あっさりと引き下がる根津。そんなに重要じゃなかったんだろう。言っている間に店に着いた。とりやんすには毎週ぐらい来ているんじゃないかと思う。まあチェーンだし、どうせ俺のことなんて、覚えていないだろう。階段を上がってドアを開けて、お決まりの無言でピースサインをする。この時のピースサインが、俺にとっていつもの真面目とは違う腑抜けた感じでちょっと好き。

と思いながら席に案内される。根津は座るときは一丁前に奥の席に座る。まあいいけど。ちょっとぐらい遠慮したらどうか、一言ぐらい、奥いいすかとか、なんかないんか。こういうことを気にしているときは自分に少し余裕がないときだ。

「ハイボール、二つ」

俺たちはビールが飲めない。ここで言う俺たちは、俺たちと同級生ぐらいのことを指す。二十七歳ぐらいの人たちとか、それよりも年下の人とか、そういう人たちのことを言う。圧をかけられてビールを飲むほど会社に適合しようともしていない。圧をかけられたら直ちに辞表を出すだけ。会社って言うのは自分たちの中でそれぐらいの存在。

氷がたっぷりと入ったハイボールが二つ運ばれてくる。根津は、乾杯という言葉を知らないらしい。運ばれてくるなりいつも、飲みだす。もう乾杯とか言う気が起きなくなった。まあ、このぐらいの関係性ぐらいのほうが心地がいいときもある。

なんだか今日は少し様子がおかしい。一気にハイボールを飲み干して、二杯目を頼んでいる。

「根津、どしたん。そんな飲んで」

「たくみ、俺な。会社辞めようと思うねん」

ああ、今日はこういう日か。根津はたまにこういうことを普通に言い出す。

根っからのネガティブだから、基本的に仕事が嫌いがデフォルト。会社で会うと大体げんなりしている。変な気が移るからあんまり近づかないようにしている。平和なことだけ考えていればいいが、そういうわけにもいかないんだと、こいつにビシッと言った時は、こいつは次の日会社を休んだ。俺が言う言葉には少し慎重にならないといけない。

「また、始まった」

「今度はガチなんよ」

「なにがガチだ。いつもそんなこと言って。今度はなんか。上司が怖いか、仕事がつまらんか、新しい彼女ができたか、ほかにやりたいことができたか。どれや」

「仕事がつまらん」

「いや選択肢の中にあるんかよ」

良かった、いつも通りだ。いつも通りに、いつも通りだ。愚痴聞き会か。まあいい、別に俺は吐き出したいこともない。素直に聞いてやろうじゃないか。

「お前はいいよなあ、彼女もいて、仕事もできて」

「なん、急に」

「羨ましい、お前が」

「別に大した人生送ってないし。芸能人のほうが幸せだろ」

「そんなお前よりも幸せじゃない俺って一体」

「ほんとデリカシー無いな、お前。だから人生上手くいかないんだろ」

「あ、ごめん」

これが俺たちのいつも通りの会話。何の変哲もない、何気ない日常の欠片。心の底から幸せになりたいという気持ちは消え失せた。別に普通に生活できていればいそれでいい。それでいいんだと。下流でも上流でもない。ごく普通の生活。

「たくみ、そろそろ結婚するんか」

「またその話か」

「気になるやん」

「まあ、そろそろかな」

「プロポーズ、どうするん」

「無難にインターコンチネンタル。かな」

「たくみは、無難が好きだな。相変わらず」

「人生求めすぎても良いことないやろ。普通に仕事して、普通に生きていればそれでいいんよ」

「マイルドやな、生き方が」

「少なくともワイルドではないな」

気づいたら俺もハイボールが空いていた。二杯目を注文する。こうやって人間は堕落していくんだろうな。でも、それも悪くない。セブンイレブンのアイスコーヒーは、モカブレンドじゃなくて普通のコーヒー。ぐるてんふりーとか、びーがんとか、そんなものは知らん、コンビニ飯最高。そんぐらいの人生で俺はいいと思ってる。

「でも、気になることもある」

根津が急に真剣な顔をしてこちらを向いてくる。

「なん」

「俺たちが本気を出したらどうなるんだろうって」

根津の真剣な顔は収まらない。こいつ本気で言ってるんかと呆れる。

「あほか、お前が本気出せないから、今の人生なんだろ」

「俺はまだ本気出してないだけだ」

「どっかのドラマか」

「最近、小説を書き始めた」

「は?」

「だから、小説」

「ほう」

少し興味がる話題が出てきた。根津が自分から何かをすることなんてまずない。どういう風の吹き回しだ。なんかあったんか。それともこいつ、本気で仕事辞めようか悩んでるんか。

「たくみ」

「ん」

「俺、本気で仕事辞めようかと思ってん」

少し顔が暗い。きっと本気なんだろう。俺も根津のことは分かっているつもりではあるが、結構真剣に人生のことを考えているんだなと最近思った。そう、きっと俺なんかよりもはるかに考えていて、軽やかで素直で明るいんだろう。正直者だから会社でも嘘をつかないし、仕事はできないけど嫌っているやつもいない。こういうやつが結局は幸せになるんだろうなと思いながら話を聞く。

「なんするん、辞めて」

「」

根津が言葉に詰まる。何か言いたい感じだが、何も言わない。

「なんもしないんか」

根津が少し下にうつむく。ハイボールから手を放して、手を膝の上に置いて、少し天井を仰ぐ。

「なんかしないといけないんか、人生は何かしていないといけないんか」

根津が少し声を荒げる。珍しい。こんな一面もあるんだと驚く。だが、それと同時に、なんだか、ほんの少しだけ腹が立った。

「こっちは聞いてやってるんだぞ」

「すまん」

「別に、何もしなくても良いんじゃないか。何かするのが人生でもないんだし、ゆっくりしたらいい」

「なんでそんな、上からなん」

「は?」

「俺は仕事できるから、仕事しないお前よりも偉いですよってか」

「ちょ、なんなんまじで」

「仕事辞めるって言った途端、なんかもう友達じゃないみたいな感じだしちゃって。良いよなエリートは」

「そんなこと、思ってないし」

声を荒げる根津に対して、俺もつい熱が入ってしまう。

「じゃあほんとはどう思っとるん。仕事辞めたいっていう俺に対して」

「別に、なんも」

「なんも思ってないわけないだろ。言いたいこと言えよ。仕事できないやつとか、人生終わったやつとか、彼女もいないしどうでもいい人生送るんだろうなとか、色々と思ってることあるんじゃないのか。そういうことを一切出さないから、本当の友達ができないんだろ。前にたくみは、本当の友達ができないって嘆いていたときがあったよな。俺はなんでたくみに友達ができないのか、分かる」

俺の頭の中で、何かが切れる音がした。

「いい加減にしろ。なんだ、お前の愚痴に付き合ってやってるっていうのに、説教か。本当の友達ができない理由なんて、お前に何が分かんだよ。いいからさっさと仕事でも何でも辞めちまえばいいじゃんか」

「もうええ、大切なことを大切にできないたくみに、何を言っても無駄だったかも知らん。彼女さんと、そして仕事と、お幸せにすればいいじゃんか。そうやってご縁を切っていって、本当に信頼できる人間なんて一人もいない中で、人生を終えていけばいいじゃんか」

「なんだと」

怒りの熱は上がってくる。もうハイボールの二杯目の氷は溶け出していた。

「もういいわ、帰るわ、今日は」

急に根津が立ち上がった。と思ったら、根津は机に千円札をどすっと置いて、さっさと帰ってしまった。逃げるように、逃げるように。社会から逃げるように、この世界から脱出するかのように。

根津が帰った後も、煮えたぎった自分の怒りに狂いそうになる。ハイボールを飲み干し、三杯目を頼む。おつまみもがっつりしたものを食べたい。今日は胸糞が悪いから何でも食ってやる。メニューに目を落とした。

そのとき、根津が帰った後の椅子に、何かが落ちている。封筒か?にしては少し手紙っぽい。躊躇なく開けてみる。


たくみへ

誕生日おめでとう!かれこれ、まだ半年ぐらいの中だけど、こうして飲みに行ったり愚痴を聞いてくれたり、本当に助かってるわ。俺なんて、仕事もできないし面白くないし、彼女もいないし、人生なんてお先真っ暗なんだ。

でも、たくみが居てくれるからなんだか頑張ろうって気持ちになるし、たくみに応援してもらえたら、なんでも頑張れる気がするんだ。

俺、前の職場はすごいブラックでさ。少しも気が休まらないまま、今の会社に来ちまった。それでたくみに出逢った。何でもかんでも許してくれるわけじゃないけど、俺のことをいつも認めてくれる。そんなお前が居てくれることが、今の会社に来てよかったと思う理由。

これからも、不器用だけど人生頑張るからさ、応援してくれよ。俺の人生には、たくみがいないと始まらないぐらいの、そんな仲になりたいんだ。

改めて、これからもよろしく!

根津より


言葉にできない、何か空虚なものを真っ先に感じた。冷たい、心が凍っていくことがはっきりとわかる。

嗚呼、なんてことをしてしまったんだろう。

自分が崩れていく音と同時に、大切なものを失ってしまった感覚。根津はきっと、今日これを渡したかったんだ。俺の誕生日を祝うために、今日飲みに誘ってくれたんだ。そういえばきっと、小説のことも、根津なりに頑張っていることを応援してほしかったんだ。

俺は、なんてひどいことを。

友達の大切さを、俺はいつの間にか忘れてしまっていたんだ。人生独りじゃ生きていけないことは分かっていたけど、そんな世界の一部になっていることをいつの間にか俺自身が忘れていた。

幸せの権化は、小さなところに隠れていると、なんかの本で読んだことがある。会社でもない、結婚でもない、心の底から腹を割って話せる、人生で関わりすぎない友達がいるから幸せを感じられるんだと、何かの映画でも見た気がする。

悔しい。苦しい。自分が一番大切にしていると思ってた。そして、その考えが一番欠けていると思っていた根津が、こうして俺に気づかせてくれた。人との関わり、人生の幸せ。どこか型にはめて、そこから外れる人間のことを無にして。俺はなんてことを。

ハイボールをそのままにして、すぐさま会計をして、店を駆けだした。駅まで走る。でも、根津の姿はない。ああ、遅かった。遅かった、遅すぎた。

その日はそのまま、家に帰った。

根津が置いて行った封筒は、カバンにしまって、帰りの電車では、空虚な気持ちを抱えたまま、帰った。帰りにコンビニで何かを買おうとしたが、何も買う気が起きなかった。

小さく頷いて、自分のことを無理やり納得させて、心から信頼できそうだった友達を失って。何が人生だ。何が結婚だ。何が幸せだ。目の前にある小さな種すらも大切にできないで、自分のことを誇らしいと思っていた。目立つことばかりを考え、人よりも幸せになることばっかり考えて生きて。こんな人生で、何が楽しいんだ。考えれば考えるほど、自分が嫌になる。

その次の日から、根津は出勤しなくなった。色々あって会社を辞めたと、直属の上司から聞かされた。

「あいつ、根性ねえよなあ」

根津はそれ以来、会社では、笑いものにされていた。腫物として扱われていた。

俺の心には、大きな影が残ったまま。

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海野深一
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