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北の海の航跡をたどる〜『稚泊航路』#2 未来を開く栄光の第一船『壱岐丸』

プロローグ

稚泊航路の開業は、1923年(大正12)5月1日。
今(2023年)より丁度、100年前のこと。

その“栄光の第一船“となったのが大泊港から稚内港行きの『壱岐丸』(1680㌧)です。

壱岐丸(1680㌧)

『壱岐丸』(IKI-MARU)
□総トン数 1680㌧
□全長 86.25m
□全幅 10.97m
□最大速力 14.96ノット
□旅客定員 1等18名/2等64名/3等430名 合計512名
□乗組員 68名
□貨物積載能力 300㌧

以来、最後の連絡船『宗谷丸』まで、この航路に就航した連絡船は、代船も含め全部で7隻。

終戦前2年間の記録は、残っていませんが、開業より1943年(昭和18)までだけでも上下便合わせて約284万人の乗客を運んでいます。

開業当初の運航ダイヤを確認すると、夏季は隔日、冬季は、1ヶ月6往復という何とも頼りない状態でした(運航時間は、夏季8時間、冬季9時間)。

これが夏季毎日運航、冬季隔日となり、通年毎日運航となるのは最新鋭の砕氷能力を備えた連絡船『亜庭丸』(3297㌧)と『宗谷丸』(3593㌧)の二便体制となる1932年(昭和7)以降のことです。

栄光の連絡船『壱岐丸』

1923年(大正12)5月1日、宗谷海峡を滑るように樺太・大泊港(午後9時出港)から稚内港へ向かう二本マストの汽船がありました。

黒煙を吐き続ける高い煙突の「工」のマークが、鉄道省の船であることを誇らしげに示していました(煙突のマークは鉄道レールの断面に由来します)。

船の名は、『壱岐丸』。大泊港で乗客217名を乗せています。

5月2日、早朝、稚内の陸地から700mほど沖合で、錨が降ろされます。ポンポンと焼き玉エンジンの音を響かせながら、小型船が空のハシケを曳いて近づきます。

『壱岐丸』の甲板では身支度を済ませた乗客たちが、トランクなどを手にして待ちかねています。

大泊を出港したのが前日の夜9時。8時間の船旅でした。ハシケが横付けになり、1等船室の乗船客からタラップを降り始めます。

この『壱岐丸』が、稚内・樺太の住民が長いこと待ち望んだ稚泊航路の第一船となったのです。

しかし、この”栄光の第一便“は、『壱岐丸』にとって予想外のことでした。

当初の計画だと関釜航路から転属が決まった『対馬丸』(1839㌧)が、第一船として、この稚泊航路の第一便になるはずでした。

しかし、『対馬丸』は、冬の航海に備えて砕氷設備を施す必要があると判断され、航路開設直前になって、浦賀(神奈川県)のドックへ回航されてしまいます。

その代船として”白羽の矢“がたったのが『壱岐丸』でした。いわゆるピンチヒッターです。

しかし、このピンチヒッターは、関釜航路でも就航第一便の栄誉を受けています。

現代風に言えば“もっている(運がある)連絡船”でした。

その後、青函航路にも就航しています。

よって、当時の“国鉄三大航路”に就航したことになります。このような船は、『壱岐丸』以外にはありません。

『壱岐丸』『対馬丸』の代船(ピンチヒッター)としての役目(約1ヵ月間)を終えて、一旦、青函航路に戻る(砕氷化工事を施すため)のは、『対馬丸』が就航した翌日の1923年(大正12)6月9日です。

『壱岐丸』の総トン数は、1680㌧。小さな連絡船です。

そのため冬の厳しい季節になると流氷に挟まれて身動きが取れなくなると予想されました。このような理由で『対馬丸』『壱岐丸』に砕氷設備を施す必要があったのです。

その後、確かに両船とも”砕氷船に改造”されましたが完璧な改善ではなく“耐氷船”といった方が適切であったといいます。

氷海を航行中の『壱岐丸』

『壱岐丸』は、翌1924年(昭和13)7月、今度は、『対馬丸』の正式な僚船として稚泊航路に復帰します。

復帰の理由は、航路開設と同時に乗船客が、うなぎ登りに増え続け、夏季隔日、冬季5日に1往復の『対馬丸』の単独運航では、さばききれなかったからです。

Episode#1~遅延時の船内

『壱岐丸』が流氷に挟まれると病院に見舞いに行く乗客より、よく次のような電報が打たれたようです。

「まだ生きているか?」「葬儀、延期せよ」

また、流氷で動けなくなると食堂が無料になったそうで、一杯30銭のカレーライスがタダで提供される。ところが、出口には、献金箱が置かれていたという笑い話も伝わっています。

Episode#2~壱岐丸熱湯事件

1924年(大正13)8月27日、『壱岐丸』は、22時大泊港を旅客235人、貨物2トンなどを積載し稚内港へ向け出港。

翌日28日6時頃到着。

1,2等旅客を艀(ハシケ)へ移し、下船作業が始まりました。その後、3等旅客全員の移乗が終了しようとしていた、まさに、その瞬間、船の器機より突然、ものすごい勢いで熱湯が艀の中の70~80名に降りかかります。

逃げ場を失った旅客は、熱さから海に飛び込む人、熱湯から体をかわす人。女性や子供の悲鳴、助けを求める声で艀内は、修羅場と化します。

熱湯の噴出は短時間で収まり、火傷を負った旅客は稚内の病院へ搬送されました。

事故の要因は、乗組員同士の操作確認の不徹底によるものでした。

この事故で、重度の火傷を負った旅客が16名、軽度が8名、死亡者1名を出しました。

航路開設後、間もなく起こった事故だけに『壱岐丸熱湯事件』として注目されました。

Episode#3~初の音響測探儀装備船

1925年(大正14)12月、連絡船『対馬丸』がノシャップ岬沖で座礁します。

この事故を受け、『壱岐丸』に1926年(大正15)“音響側探儀”が船底に装備されます。

『壱岐丸』は、日本で最初の「音響測探儀装備船」となりました。他に“無線方位測定儀”も日本で初めて取り付けられています。

Episode#4~亜庭丸と壱岐丸

1929年(昭和4)2月17日、稚内を出港した『壱岐丸』が大泊に到着したのは21日。実に87時間の遅れでした。

遅延の要因は、氷海を『亜庭丸』に氷を割ってもらいながらの運航によるもので、それがなければ更に遅れたと思われました。

『壱岐丸』は、何度か改造されましたが北の厳しい海を航海するには、僚船である『亜庭丸』の助けが不可欠だったのです。

Episode#5~稚泊航路を去る壱岐丸

1931年(昭和6)1月、北海道北部に1905年以来といわれる寒波が襲来します。

航路上の結氷も例年より早く、厚い氷の発生が相次ぎます。

『壱岐丸』は、その都度、『亜庭丸』の助けを受け、乗船客の”氷上移乗”を行うという事態が数回発生します。

両船とも、この年の苦難の航海で船体に甚だしい損傷を受けます。

その為、2月より『亜庭丸』『壱岐丸』の順番で修理を行いましたが、『壱岐丸』については、永続的に安全性を担保できないと判断され、1931年(昭和6)5月11日、大泊発便の運航を最後に稚泊航路から姿を消し、函館港に係船されます。

『壱岐丸』への氷上移乗(乗船)(大泊港外か?)

Episode#6~航行不能となる壱岐丸

1931年(昭和6)2月2日午前7時、『壱岐丸』は、樺太・大泊港を出港します。

しかし、途中、流氷に囲まれてしまいます。

この時、連絡船『亜庭丸』が就航していたので、稚内港より救援に駆けつけ、乗客111名と郵便物を全て『亜庭丸』に移し換え、そのあと、『壱岐丸』の周囲を回って氷を割り『壱岐丸』が航行できるようにしました。

『壱岐丸』がやっとのことで稚内港にたどり着くまでに大泊港を出発して73時間もかかったそうです。

流氷に囲まれた『壱岐丸』(1931年/昭和6年2月)

Episode#7~樺太丸へ船名変更

1932年(昭和7)最新鋭の砕氷連絡船『宗谷丸』が就航します。それにより『壱岐丸』は、大阪商船に売却され、一旦、稚泊航路を去ります。

同社は、系列会社である北日本汽船㈱に『壱岐丸』を与え、北日本汽船は『壱岐丸』へ更に改造を加え、1937年(昭和12)4月稚斗航路(稚内〜樺太・本斗・現 ネベリスク)に就航船『鈴谷丸』(864㌧)の後継として再登場させます。

船名も『壱岐丸』から『樺太丸』へと変更されました。

『樺太丸』(壱岐丸)
は、戦後、1945年(昭和20)7月~1947年(昭和22)9月まで青函航路で稼働します。

Episode#8~インディギルカ号救助

1939年(昭和14)12月 ソ連船『インデイギルカ号』(2690㌧)が北海道・猿払村沖で遭難します。

この時、救助に向かったのは、稚斗航路に就航していた『樺太丸』(元 壱岐丸)と小型発動機船の『山陽丸』『宗水丸』(いずれも250㌧)。

救助にとって好運だったのは、『樺太丸』が、暴風雪のため樺太・本斗へ向けての出港を見合わせて稚内港に停泊中だったことです。

『樺太丸』は、救助母船として活躍し、助けたロシア人402名を乗せて小樽港まで大シケの中を送り届けています。

ソ連船『インディギルカ号』(2690㌧)

号鐘が鉄道記念物に

『樺太丸』(元 壱岐丸)は、1951年(昭和26)室蘭で解体されます。

その際、取り外された号鐘は、1967年(昭和42)船舶関係第1号の鉄道記念物に指定され、現在、埼玉県さいたま市の『鉄道博物館』で展示されています。

『壱岐丸』の号鐘(鉄道博物館/埼玉県さいたま市)

エピローグ

稚泊航路開業に伴う樺太島民や稚内住民の航路に寄せる熱い期待は大きなものがあったといいます。

就航初便「壱岐丸」を迎える前夜、大泊では、港に大きなアーチが設けられ、絶え間なく花火が打ち上げられました。さらに祝賀会が盛大に催され、大通りは、提灯行列で彩れます。

また、実質的に樺太庁の広報誌であった地元紙「樺太日日新聞」は、「泊稚航路記念号」と題して大特集を組み、樺太の輝かしい未来を夢見ています。

連絡船は、就航以来、連日の満員盛況が続き、欠航便が出ると次の便で乗りきらない乗客が稚内港に溢れたといいます。

それまで樺太各港〜小樽間を結んでいた民間航路の船客の半数以上が稚泊航路に流れ、日本各地からの視察団の来訪も相次ぎました。

さらには、旅客だけでなく、年を経るごとに貨物輸送も小樽航路から稚泊航路へシフトしていきます。

樺太航路は、単に樺太の発展のみならず、それまで北海道経済において絶対的地位を占めていた商都・小樽をその後の衰退へと導き、代わって旭川や稚内が目覚ましい発展を遂げるなど北海道の経済地図さえ塗り替えていくことになります。

人々にとって、航路1便「壱岐丸」の姿や汽笛の音は、稚内や樺太の未来を開く先ぶれのように聞こえたに違いありません。

稚内港外の『壱岐丸』(左側)、『亜庭丸』(中央)、稚斗航路『鈴谷丸』(右側)

参考・引用文献
・「樺太文学の旅」 発行 ㈱共同文化社
・「北海道鉄道百年史」 発行 日本国有鉄道北海道総局
・「風土記 稚内百年史」 発行 野中 長平
・「宮澤賢治とサハリン」 発行 東洋書店
・「ウイキペディア」
・「サハリン~鉄路1000キロを行く」 発行 日本交通公社
・「北海道略史」 発行 北海道総務部文書課
・「地理 特集サハリン」 発行 古今書院
・「稚内駅・稚泊航路 その歴史の変遷」 大橋幸男 著
・「サハリン文化の発信と交流促進による都市観光推進調査 調査報告書」
・「宮沢賢治とサハリン」 藤原浩 著
・「宗谷海峡物語」 発行 稚内市
・Wikipedia 

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